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「王様の耳はロバの耳」(2025)
 
2025年3月21日
『卒業式  3月19日、事務所の近くにある七生中学校は卒業式だった。この日の朝は水っぽい雪が降っている生憎の天気だったが、和服をきた人が校門をくぐって行く。「卒業式」の大きな看板が雪まみれになっていた。どんな天気であれ、卒業式を迎える生徒と家族の気持ちを思いやった。そして、私ははるか昔の小学校の卒業式での出来事を思い出す。式が終わってクラス全員が、いい天気の校庭に出て、いくつかのグループごとに写真をとったが、そのとき担任の先生が「こうやってクラスの全員が揃っているのは、今日が最後なのだからね」と言った。「そうか、こうやってクラス全員が集まることは、今日で最後なのだ」と感傷的な心持ちになったことを忘れられない。卒業の記念品として学校がくれた印鑑を、今でも使っていて、使うときには卒業の記念品だということを思い出す。(宮)
   
2025年3月14日
兵庫県知事  兵庫県知事を巡っては、斎藤知事のパワーハラスメントから、内部告発、公益通報、職員の懲戒処分が問題になり、挙句に県会議員の自殺まで問題がおおきくなった。その後、県議会での満場一致の不信任決議が通過して、知事選挙になったが、ここでは公職選挙法の規定を搔い潜って2馬力選挙といわれた珍妙な選挙運動が行われ、斎藤知事が再選された。そしてその後、100条委員会の報告が提出されたが、知事は「一つの見解」と言い放って、これを無視している。過去の知事不信任決議と100条委員会の報告の時間的におかしな前後関係など、これまでの経緯の中には関係者の様々な失策があったようだが、100条委員会の報告の重みは無視されるべきではないだろう。様々な失敗は失敗として、知事や県会議員などの政治家が最低限筋の通った責任ある対応をすることが大切だ。知事の記者会見での答弁を聴いていると、私は、県議会は再度の不信任決議を通すことが筋の通った行動だと考える。(宮)
   
2025年3月7日
バスの運転士  通勤で毎日バスに乗っている。いろいろな運転士がいる。座席が空いているのに立っている人があると、「空いている座席に座ってください、それが一番安全なのですから」と車内放送を繰り返す。この運転士は、停留所に止まる前に座席を離れると、「まだ立たないでください、ちゃんと止まってから立ってください」と強い口調で要求する。乗客は、逆らわずに言われたとおりに行動している。
 停留所の案内には録音テープが使われているから、運転手が車内放送をしなくても済むので、ほとんど喋らない運転手もいる。また、なかには私の老化した耳には、何を言っているのか聞き分けられない車内放送もある。
 そんななかで、マニュアル通りに喋っていますというのとは全く違う気持ちのこもった車内放送をする運転手もいる。時々その運転手に出会うと、特徴のある喋り方なので「ああ、あの人だ」とすぐに分かる。一体何という人なのだろうかと表示されている名前を見た。Sさんとわかった。ところが、だいぶ間をおいてまたその声を聴いたときに、名前を見たらMさんだ。「ええ!こんなそっくりさんがいるのか」と驚いた。でも、世の中に無いことではないと思っていたが、最近また出会ったときに、終点で最後に下車して、運転士に尋ねた。「あなたとそっくりな話し方をするSさんをしっていますか」と。そうしたら「はい、私です。運転手の名前を別にしました」と。同一人だったわけだ。
(宮)
   
 
誰だっけ?』  ある日会社を遅刻しているのにふらふらと南平で会社の本の在庫を少しストックできそうな物件がないかとうろうろと歩き回っていたときのこと。後ろから「こんにちは」と自転車に乗ったおじさんに声をかけられた。顔をみるととてもいい人そうな顔がこちらを見て笑っている。はてどこでお会いしたのかな?と思うが思い出せない。「え~と」と言うと、あ、自分のことをこの人はわからないのだとおじさんは察したようだ。そしていつも畑の横辺りでみかけると言われる。はてどこの人だっけ?ご近所さん?おじさんは後ろ姿であれ?そうかなと思って声をかけてくれたらしい(もちろん名前もお互い知らないのだが)。今日は少し離れたところに野菜を買いに行った帰りだとのこと(朝市でもあるのだろうか)。自転車の後ろに牛蒡があった。朝早くからまめな方である。ちょうど家に帰るところだというので会社に行く私とは同じ方向に歩くことになり、おじさんは自転車にまたがったまま、わたしのペースにあわせ足をけりながら進む。おしゃべりしながら。「Tさんの隣の方ですか?」「違う」「畑のある並びの道路の向こうの角?」「違う」となり、進むうちに到着し、ここだよと畑を過ぎ畑の斜め前のお家だとわかった。「ああ!ここでしたか!Yさん(表札もちゃんと見て名前を初めて認識)」と私。「そう」とおじさん。そうだそうだ、時々外に連れ合いの方と車でお出かけするところに出くわして挨拶していた家だった。おばさんはとても品のいい感じの方だなと思っていたが、外でお会いしたら気づかないかもしれない。その家にいると家とセットでご近所さんと覚えていて、ちゃんと顔を覚えていなかったことがわかりちょっと恥ずかしかった。今度お会いしたときにはちゃんとその人とわかるかな。挨拶というのはこんなふうに人と人と親しくなるきっかけとなり、ほんの数秒のことでもちゃんと人は覚えてくれるのだということを知る。顔も名前も覚えられない私だがこういうふうに親しくなることは好き。嬉しい。おじさん、誰だっけ?なんて心の中で言ってごめんね。これからもよろしくお願いします。(やぎ)
   
2025年2月28日
浅川河川敷の木々』  浅川を毎日歩いているといろいろな人に出会う。いろんな出来事に出会う。ジョギングや、散歩の人、犬の散歩の人、中学・高校の授業で走っている生徒、国土交通省の見回り担当者、それからゴミを見つけて収集している人。そして先日、これまで出会ったことのない人を見つけた。その人は、河川敷の木と格闘している。
 浅川河川敷には草だけでなく木々があちこちに生えている。しばらく前に護岸工事が行われたときに河川敷の木々はかなり伐採されて河川敷が広く見渡せるようになったが、それでもなお小さな木々は残っていた。近頃はその木々に蔓性の植物がまとわりついて、数年のうちに元の木々の姿が見えないほどになってきた。1本1本の木が蔓植物にすっぽり囲われてしまっていた。最近は蔓植物の生命力の強さに感心して眺めていた。真冬ですっかり茶色に枯れてはいるが、相変わらず元の木の姿が見えないほどにまとわりついている。ところが数日前の朝、事務所目指して歩いていたら、柄の長いハサミを使って蔓植物を取り除く作業をしている人に出会った。丈の高い木ではハサミが届かなくて、苦労していたが、蔓植物が除去された木は、久しぶりに邪魔されずに陽の光を浴びている。作業をしているのは河川管理の関係者ではなく、ボランティアで作業している一般の人らしい(これは想像)。すでに蔓植物が除去された木々を歩きながら見ていくと、春を迎える前の化粧直しをしているようで、清々しい雰囲気が出来ていて、嬉しくなった。
 春になって、新芽が出始めたら河川敷の木々がどんな姿を見せてくれるのか、楽しみに待っていよう。
(宮)
   
2025年2月21日
トランプ大統領  トランプ大統領批判の論評が、新聞やネット番組に出てくる。アメリカ第一といって打ち出す政策が、世界をどれだけ混乱させ、疲弊させるか、トランプ政権は分かっていない、というか無視しているようだ。フランシス・フクヤマや藤原帰一の正面切った批判は、トランプ大統領出現以来の状況の深刻さを裏書きするものだ。学者やジャーナリストの一部が1938年のミュンヘン協定やワイマール共和国に言及しているも同様で、そこには歴史の教訓に思いを致しつつ、この難局をどう切り抜ければいいのかという苦悩を読みとることができる。1938年との最大の違いは、核兵器の存在の有無だろう。核兵器の使用をちらつかせながら相手を威嚇するプーチンが、現代の危機状況の主要当事者の一人なのだから恐ろしい。当面、トランプ大統領に対するアメリカ国内世論の動きと、ヨーロッパ各国がどこまでまとまって対応できるかを注視したい。(宮)
   
2025年2月14日
『明珍先生』  『ロザムンドおばさんの花束』のなかの1篇「初めての赤いドレス」には、売れない画家タミー・ホーディーが出てくる。ピルチャーの作品だから最後はほのぼのとした結末になる。画家としてどんなに才能があっても、絵が売れるとは限らないし、世の中に知られないまま消えていく画家が大勢いるだろう。「初めての赤いドレス」はそんな事情のなかでタミー・ホーディーが偶然と幸運に恵まれるという話だ。
 私はタミー・ホーディーが、以前中学の教師をしていたという一節を読んで、突然中学時代の美術の明珍先生を思い出した。明珍という珍しい名前で、教師らしくない印象の先生だった。何を教わったのか全く記憶がないが、この名前が、甲冑師の家の名前だと言うことを知って、大鎧の袖の美しい柄に興味を持っていた私には、明珍は単に珍しだけでなく、きっちり記憶に刻まれた名前になった。
(宮)
   
2025年2月7日
『選挙と独裁者』  とんでもない人物が、超大国アメリカの大統領になった。
 トランプ大統領が就任してから、矢継ぎ早に独自の政策変更策を打ち出している。WHO脱退やパリ協定脱退、2021年1月の連邦議会乱入事件の逮捕者1500人に対する恩赦、カナダとメキシコに対する25%関税、グリーンランド領有、ガザ地区住民の集団移住とガザ地区のアメリカ統治の主張等々。自国より弱い相手に対する恫喝と取引の強要。
 どれをとっても、とんでもない乱暴極まる政治行動だが、アメリカ以外の世界は、これにどこまで対抗することができるのか。民主主義の祖国のはずのアメリカで、力に物を言わせて世界中を引っ掻き回している。しかしながら乱暴な政策は乱暴な政策と言うしかない。その存在をしっかり認識することが大事だと思う。よけいな忖度は必要ない。1930年代のドイツの独裁者ヒトラーも、選挙を勝ち抜いて首相に就任した。その後のナチス・ドイツの華々しい動きを見て、当時の日本ではバスに乗り遅れるなという主張が結構力を得た。そして日独伊三国同盟にまで行き着くのだ。その先は第二次世界大戦での敗戦だ。
 どんな付き合い方をすればトランプ大統領と仲良くなれるのかを必死になって考えるのは、相手がどんな人物であれ、選挙で選ばれた超大国の大統領なので、とにかく親密な人間関係を築かなければならないという固定観念に囚われているのだ。
(宮)
   
2025年1月31日
『道路陥没』  埼玉県八潮市の道路陥没問題で、ニュースに県知事の談話が取り上げられた。なるべく水を使わないようにという趣旨の発言だったので、驚いた。日常生活を水なしで出来るわけないのに、知事がなんという発言をするのかと思った。ほかに言うべきことは無いのか?知事は事故の現状を説明し、どんな対策を取りつつあり、その中で市民にどのように対処して欲しいのかを、きちっと話したのだろうか。ニュースではそのへんがさっぱりわからなくて、知事が無責任な発言をしているのか、そうではなくて、ニュースの伝え方が知事の発言の大事な部分を伝え損なっているのか、よくわからない。このような大きな事故で、住民に甚大な影響を及ぼす問題を、住民にどのように伝えるべきなのか、行政とメディアの両方とも問われている。最近ますます増えているように感じる地震に関しては繰り返し経験してきて、伝え方が改善されたと思うが、道路陥没などというこれまでにあまり経験してこなかった問題では、ニュースに戸惑うばかりだ。(宮)
   
2025年1月24日
『ラデツキー行進曲』  ウイーンフィルニューイヤーコンサートの最後に演奏されるのはラデツキー行進曲。長年聴いてきたので、新鮮な喜びを感じることがなくなったようだ。この曲を聴いて思い出すのは、毎年秋に行われていた小学校の運動会の終盤で流れてきた行進曲を、なんて軽快で調子がいいメロディなんだろうと思って聴いていたことだ。1度だけでなく年を越しておなじ小学校の運動会で、またこの曲だと思った記憶がある。当時の教師の誰かが、この曲を使っていたのだろう。聴いた当時はもちろん曲名など知らないで聴いていただけだが、それが後にラデツキー行進曲だとわかった。
 すこし靄のかかった夕暮れの運動場に流れていたラデツキー行進曲を懐かしく思い出す。
(宮)
   
 
『生きた言葉を』  テレビの報道やニュースを見る度に思うことがある。生きた言葉が聴きたいと。何か事件があり、政治家や、その会社の責任者が話す言葉への違和感。特に近年何代かの総理大臣になった人たちの話す言葉やその周辺の人たちが話す言葉に「形だけ」を感じ、心が入っているのだろうかと疑問を持ってしまう。気持ちが伝わってこないというのが一番つらい。「で、立場上の言葉ではなく、あなたの本当の気持ちは?」と迫って聞きたいくらいだ。あなたの今話す言葉の中にあなたはどのくらいいるのかと。

 私たちは全てのものに上手(うま)さを求めるわけではない。私たちは完璧を求めているわけではない。音楽、作品、文章、話す言葉の中にその人がいて、その人が表現したい何かに心動かされるのではないだろうか?本当に伝えたいことが伝わらない演説はただの音でしかなく、その言葉に人は動かされない。目を向けていなかったのにその言葉が生きていたら、はっとして手を止めるのではないだろうか。無論、その言葉を聴こうともしないで、届かないこともあるだろう。使い古された言葉は悪いわけではない。しかし、問題が出てくると判を押したように「誠に遺憾です」や「痛恨の極み」「不徳のいたすところ」とみんなが口にすることの違和感はなんなのだろうか。人が違えばもっと違う表現もあるだろうに。定型文のように感じてしまうのは今話すその人の心がそこにのっていないからなのではないだろうか?もし同じ言葉であってもその人の心からの言葉なら聴こえ方が変わるのではないかと日々言葉について考えてしまうのであった。もちろん聴く側の気持ちも大いに関係するのだろうけれど。(やぎ)
   
2025年1月17日
『阪神・淡路大震災』  阪神・淡路大震災から30年もたったということに驚く。自分の当日の行動をつい昨日のことのように思い出す。八王子の自宅で17日の明け方、兄の次男の電話で目を覚まされた。甥の声が普通でなかったので、朝っぱらからふざけているのかと思った。兄夫婦は倒壊した建物にとじこめられ、兄は呼びかけても返事がない、兄嫁は呼びかけに応えている、ということだった。家族が災害に巻き込まれたわけで、私は、それからすぐに現地へ行くことを決めた。当時、東京の大学に通っていた、兄の長男と一緒に行くことになった。
 朝9時頃には自宅を出発したが、兄一家が住んでいた西宮で、助け出された兄嫁が入院している病院にたどり着いたときには、18日の午前1時を回っていた。それから亡くなって、警察署の地下駐車場に寝かされている兄と対面したのだった。その後の数日間、さらに暫くの間、数々の忘れがたい経験をすることになった。
(宮)
   
2025年1月10日
『年を重ねる』  大勢の人が集まる街なかに出たとき、ある感覚を意識する。
 渋谷、新宿、いやもっと小さな街でも、街なかに出ると、何十年前も今も赤ん坊から老人まで、実に様々な年齢の人の姿が目に入ってくる。都会とはそういうもので、ヴァラエティに富んだ人たちが存在している場所だ。そして考えてみると、例えば70年前には子供の目で様々な年代の人達を見て、いろんな人がいるなあ、だけど自分は子どもの仲間だと思い、60年前には学生の目でみて、いろんな人がいるなあ、だけど自分は20代の若者の仲間だと思い、40年前には壮年の勤労者の目で見て、いろんな人がいるなあ、だけど自分はああいうサラリーマンの仲間だと思った。今は老人が増えたといってもやはりヴァラエティに富んだ人たちがいるじゃないかと思って見ている。そしてたしかに、いつでも、眼の前には、赤ん坊から老人までヴァラエティに富んださまざまな人たちがいる。ただ当たり前だが、自分の属する仲間の年代はちゃんと変わってきた。いつもヴァラエティに富んださまざまな人が存在しているけれど、自分はその中で世代の進行にしたがって属する仲間が変わっていき、やがてこの世から消えていくが、街なかのさまざまま人々の姿はいつでも変わらず、ヴァラエティに富んだ景色を見せているのだろうと思う。
(宮)
   
 
『今年もよろしくお願いします』   新しい年が明け月曜日から仕事始め。去年は、春先に前触れもなく襲ってきたぎっくり腰から始まり、なんとも50代半ばにさしかかる年齢を意識する一年だった。年末年始は間違って頼んだアメリカンサイズの冷たいドリンクをムリムリ飲み干したあとまんまと久々の風邪をひき、現在も若干年末からの風邪をひきずり気味である。今年は、去年の二の舞にならぬよう、無理のない範囲で人生を楽しみたいものだ。自分自身の心と体に問いかけながらなんとか元気に過ごしたいと思う。そんな年齢の山を自分の中に感じるものだから年上の先輩方がきびきびと日々を過ごしているのをみるとなんだかとても恥ずかしくなる。なぜあんなに軽やかに動き、楽しそうにできるのだろうか。まだ私はたったの50代半ばなのだ。90歳や100歳の元気なお年寄りたちが沢山いる昨今。彼ら彼女らに出会うたび、あんなふうに年を取りたいなと思う。さて、この一年もぼちぼちとがんばっていこう。(やぎ)