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2025年11月14日 |
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『社会の変化』 |
「社会の変化」とは大げさな言い方だが、毎日の暮らしの中で感じることなので、このように言わざるをえないのだ。私は毎月の半ばと月末に、聖蹟桜ヶ丘の銀行に行くが、利用する支店のATMの数が減っている。以前のような長蛇の列というのもあまり見なくなった。どこの銀行も、支店に出かけなくても用事が片付くように仕事のやり方を変え、利用者がそれに慣れるように誘導していると感じる。公衆電話のボックスはほとんどみかけなくなったし、建物の一角に、赤電話が置いてあった名残の架台が残されていたりする。若い人は、電話でダイヤルを回していたのを知らない。それどころか、電話で話すことが苦手という人が大勢出てきている。電車やバスに乗れば、乗客のほとんどはスマホに食いついている。電車の改札口の変化はどうか。切符をハサミで切っていたのがカード式になり、今はカードを使わない方法が研究され、間もなく実用化されるとか。昔、切符をハサミで切る名手がいたのを思い出す。持たせ切りの名人もいた。企業はスムーズに仕事を片付け、人を煩わせず、利益を挙げられる活動に知恵を絞っているようだ。便利な新しい商品が次々生み出される。その結果、生活の形が変わっていくのだ。我々はそれらの新しい生活スタイルに合わせなければ生活しづらくなっていく。私たちは、今スーパーマーケットやコンビニエンスストアを利用せずには生活することができない。戦後80年を生きてきていろいろな生活の変化を見てきて、いまさらながら「社会の変化」に感慨を覚えるのだ。便利になった、楽になったとはいえるだろうが、人を幸せにした変化だったかは疑問だ。(宮) |
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2025年11月7日 |
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『バス路線改正』 |
高幡不動駅から聖蹟桜ヶ丘駅までのバスは、従来夕方の時間までは百草団地を経由していたが、それ以降の時間帯では経由しなかった。同じバス路線なのに停車する停留所が変化する。経由する時間帯には、「このバスは百草団地に参ります」経由しない時間帯には「このバスは百草団地に参りません。こちらでお降りください」という放送がある。とても分かりにくい運行だったが、最近のダイヤ改正で、これが改められた。どのバスもみな百草団地を経由するようだ(あくまでたまたま利用した経験からの判断)。しかし、「このバスは百草団地に参ります」という社内放送は今でも残っているが、これは従来の運行を知っている乗客のためのフォローだろう。
毎日利用するバスの運行上の改善にうれしくなった。(宮) |
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2025年10月31日 |
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『浅川の変貌』 |
通勤で高幡不動駅から事務所まで、浅川土手を歩くようになってから、ほとんど歩かなくなった南平から事務所までの浅川土手を、久しぶりの好天に誘われて歩いた。景色がかなり変わてしまったと感じた。
10年ほど前には、土手の法面と川面の境に今見ているような樹木は多くなかったし、小さかったのではないかと思う。当時は川面に多数の魚の姿が見えていた。今回、川面に目をやると樹木が邪魔して魚の姿を見つけることができなかった。10年のあいだに樹木が増えてそしてどんどん成長して、川面の景色が変わってしまったらしい。自然の力の大きいことを実感した。
私には、水の流れがよく見えていた10年前の景色のほうが好ましいが、個人のそんな感傷には関係なく、こんな人工的な川と土手が作っている自然だが、逞しく変化していく。(宮) |
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2025年10月24日 |
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『団地』 |
毎日の通勤はほとんどが浅川土手だが、事務所の直前には市営住宅の中を通る。かなり前の時代の建設なので4階建てだ。夕暮れの空気の中で団地を見ると、この種の住宅のことをいろいろ思い出す。
1960年ごろ、高校の同級生の家が住宅公団に当選したと言って、数人の同級生を真新しい団地に招待してくれた。白く塗られた壁や間取りや設備は、当時、町中のしもた屋に生活していた私には、すばらしい新鮮な眺めだった。
同じ頃、記憶では「地球防衛軍」という題名の映画の中で、集合団地のモダンな台所が出てきて、自宅との落差を感じつつ見ていたことが記憶に残っている。小津安二郎の映画に出てくる住宅は、私の自宅を含め、日本の普通の住宅の有様を舞台にしているが、比べるとその映画に出てきた団地住宅は見たことのない新しいものに感じた。
今ではごく普通になった間取り、設備の住宅での生活を、通勤途上、眺めているわけだ。(宮) |
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2025年10月18日 |
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『連立政権』 |
自民党と維新の会の連立政権ができそうだ。野党が政権を構成できないのは残念だ。自民の高市総裁は政治と金の問題については、党内の処分と選挙の洗礼をへて、解決済みだと主張している。この主張に納得できなくて、また、公明党が長年改革を要請してきた政治と金の問題について、自民党が対応する意思がないことが明白になったため、公明党は連立政権から離脱した。このような状況下で、立憲民主党は、野党間で異なる政策・意見(憲法・安保政策等)については当面現状維持とし、政治と金の問題他のすでに野党間で共通の立場ができているいくつかの課題に絞って連立政権を構成することができたと思うが、現実にはそのようには運ばなかった。
ニュース報道を見ているて、目立つのは自分たちの主導権のもとに政権を構成したいという欲望のぶつかりあいだ(高市、玉木)。立憲民主党の安住幹事長は、政権奪取の好機に各党が考え行動しているのは、何とか数合わせを成し遂げることだ、政党として当然のことだと言う。しかし、政権奪取の中心に位置するはずの立憲民主党の幹事長の発言としてはいかがなものかと思う。これまでのところ、私には公明党の斉藤代表の発言がさわやかに聞こえた。(宮) |
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2025年10月10日 |
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『発表と討論』 |
フランス人ジャーナリスト西村カリンさんが、朝日新聞の10月9日の「オピニオン&フォーラム」の記事「「よりマシ」という選択」で「討論する文化
欠ける日本」ということを論じている。今回の自民党総裁選挙でも「討論会」と称するイベントは何度も開催されたが、実は候補者同士が討論することなどほとんどなくて、発表会の連続だったと批判している。私が日頃感じていたことを指摘していると共感を覚えた。NHKの政治討論番組で、「本日は○○について徹底討論いたします」などと司会者が言っても、実際は出演者が順番に自分の意見を発言するだけだ。司会者の敷いた道筋に従って、他党の発言に対しては感想を述べるぐらいがせいぜいだ。自由な討論を聞いてみたいが、今回の総裁選のように様々な思惑があって、候補者が自身の意見を封印している状況では、彼らには発表会が望ましい形態なのかもしれない。(宮) |
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2025年10月4日 |
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『優しいバス』 |
「後方に一瞬バスの姿が見えた。この暑さの中、このバスを逃したくないと走り出す。私の横を追い越すバスから、はっきりと車外アナウンスを聞いた。「走らないでください。停留所で待っていますので」」これは朝日新聞の投書欄の記事の一節(9/27付朝刊)だが、安全第一で運行するということで、非常に機械的に発車、停車するバスが多いのが現実だが、こんな親切な運転手がいるのも事実だ。京王バスの乗車中にこれと同様の出来事を見たことがある私は、「そういう親切な運転手もいるんだ」と同感しながら読んだ。そして、投書の末尾に「京王バスの運転手さん、ありがとう」とあったので、そうかこの人も京王バスでの経験かと、いっそう親近感を覚えた。投書者は次のように書いている。「これまで幾度となく路線バスを利用してきたが、このような親切な扱いをされた覚えはない。同じような状況なら、大概は間に合わず、バスは先に行ってしまっただろう。」(宮) |
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2025年9月26日 |
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『港の見える丘』 |
打合せで、私の大学時代の恩師で、『濱口雄幸伝』、『関東大震災と中国人虐殺事件』の著者である今井清一先生のことが話題になった。今井先生といえば、まだお元気だった2020年正月早々、私は、港の見える丘公園の近くにある老人福祉施設に試し入居されている先生ご夫妻を訪ねたことがある。その時、久しぶりに港の見える丘公園にも足を延ばした。
打合せの翌朝、浅川土手の遊歩道を歩いていたら、今井先生のことが頭に浮かび、港の見える丘公園近くの施設を訪問したことを思い出していた。次に頭に浮かんできたのは平野愛子が歌う「港の見える丘」だ。平野愛子の独特の声で歌われるメロディが出てきたら、なかなか終わらないので、いささか驚いた。「港の見える丘」は昭和22年に世に出た歌だ。その後ときどき聴いたことはあるが、今井先生のことから「港の見える丘」が出てくるとは!今井先生は昭和27年以来横浜市立大学に勤務されていたので、横浜には縁が深い。私も大学時代から今日まで、今井先生との関係もあって、横浜とは切れない縁があると感じる。(宮) |
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『表なのに…』 |
定期券が切れる前日、券売機で買おうと駅の券売機へ。随分前から古くなったそのPASMOの定期には文字が印字されなくなっていた。時折名前がうっすら印字されることや日にちがなんとなく見える程度のことがあったが今やのっぺらぼうの中に定期やチャージのデータだけが入っている状態だ。順を追って操作する。継続定期を買おうといつものように差し込んだ。するとすぐさま印字面を上にして入れなおせと機械に指示される。印字面(表)が上になっているのにだ。機械の誤作動かな?と思い3度4度とためしたが埒があかない。表なのに表と認識されないことになんだか虚しくなってきた。宿題に真面目に取り組んだのに、真面目に取り組んでいないと言われるような虚しさ、もしくはわたしなのにわたしだと、信じてもらえないという虚しさだ。仕方なく別の機械をと思うが隣ではおじいさんがのんびりとなにか発行中。焦らせるのもいやなので会社の最寄り駅に移動してそこで買うことにした。改札を出て券売機へ。そして…定期はいつものようにちゃんと買えた!定期の表はその機械ではちゃんと表と判断してもらえたのだ!しかし相変わらずそこには文字らしいものはなくて、のっぺらぼう。薄汚くなったわたしのPASMO定期。もう少し一緒にいられそうだ。わたしも擦り切れてかわりはてたら、だれからもわたしだと気づいてもらえないかもしれない。どんなに擦り切れてもわたしなのに。タイセツニツカワナケレバ…。(やぎ) |
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2025年9月19日 |
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『いつから現代史?』 |
現代史はいつから始まったのか?塩川伸明『現代史の起点』はソ連の崩壊、冷戦の終結、ロシアと旧ソ連を構成していた自治共和国の独立の時期、つまり1989年の前後から現代史は始まると書いている。
欧州各国や日本は、第2次世界大戦が終わった1945年が区切りの時期だというのが感覚的にはぴったりするが、世界史との関連を考えると、冷戦終結、ソ連崩壊が現代史の始まりというのも納得できる。
1917年のロシア革命を世界史の動きの中の巨大な出来事と考えてきたのに、ソ連崩壊を、生きているうちに見るとは思ってもみなかった。そしてその後の目まぐるしいばかりの世界の激変を考えると、現代史の起点というより、新しい時代が始まったと実感する。それを現代史の始まりというならその通りだと思う。(宮) |
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2025年9月12日 |
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『強いものが勝つ』 |
ロシアがウクライナに攻め込んでも、これを武力で反撃するのはウクライナだけでヨーロッパの国々は、様々な形で支援はするが、それ以上の行動には出ない。ロシアを追い詰めたら、ロシアは核兵器を使うだろうと考えていて、支援以上のことはしない、できないのだ。ここは第二次世界大戦の時との違いだ。ナチスドイツがポーランドに侵攻したときに、イギリス、フランスはドイツに宣戦布告した。現代ではこのような行動を取ることはできない。公然と武力行使をしたら、核兵器を使った戦争に拡大し、人類の破滅までが予測できてしまうからだ。ロシアはウクライナに攻めこんで、ウクライナ領を占領し、これをどこまでも押し通すことができる。ロシア軍を武力で押し返すことはどの国もできないから、結局攻めこんだもの勝ちで終わるのだろう。我々はいま、こんな弱肉強食の時代に生きている。(宮) |
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『コンクリートをはがしたら』 |
7月の終わりごろ久しぶりに会った友人たちと雑談していたときのこと。日々の暑さについて話はじめたら、温暖化やビル風についてなど話があちこちに飛んだ。どれも人間が撒いたタネに人間が苦しめられていることなのかもしれない。とにかく今の暑さは異常だということで、わたしが「コンクリート自体が熱くなって、それも暑さが続く原因なのでは?みんなはがして土にして植物を植えれば、裸足でもあるけるんじゃない?」と提案すると…友人たちは間髪入れず「それはありえん!」と猛反発。「土埃がひどくて生活しずらい」というわけである。確かに土の多い場所では窓を開けていると土埃が家の中をざらざらにするし、靴も汚れるし、歩きずらくなる。家事によけいな手間が増えるというのだ。もしかしたら洗濯物の問題も?というわけである。
そんなある日、朝ラジオを聞いていたら養老渓谷の駅前の緑化計画。つまりは逆開発の話が耳にはいってきた。聴くところによると駅前のアスファルトを全てはがし、駅前から渓谷までの間を森の続きのようにするという計画。高度成長期には賑やかに見えた便利な駅前だったが徐々に訪問客が減りそれとともに閉店する店も増えて殺伐とした風景が残ったという。ところが少し歩けば豊かな自然や遊歩道、川や渓谷がある美しい場所。そこまでのアプローチを自然な形で、自然とつなぐというわけだ。この場所ならではの逆再開発かもしれないが、コンクリートをはがしたら…という同じ考えをもって実行した人がいたのだなとちょっと嬉しい気持ちになる。それも7年も前の2018年のことhttps://www.muji.net/lab/living/180905.html。それはとてもいい結果を生んだようだ。
その記事によれば…
―養老渓谷駅近くにある曹洞宗、宝林寺住職の千葉公慈さんによれば、「開発という言葉は禅の『かいほつ』から来る仏教用語で、自分の潜在力に気づき良い方向に向けて実行していくこと」を言うのだそうです。持てるものを伸ばしていくのが開発だとすれば、ここ養老渓谷駅でやっていることは、本来の意味での開発と言えるでしょう。―(記事より一部引用)
自分の潜在力に気づき良い方向に向けて実行することが開発だとするならば自分のこともこれからも開発(かいほつ)していきたい。いつの時代にもいろんなアイデアを出し実行する人がいるのだ。今暮らしている場所とは、勝手は違うかもしれないし、同じというわけにはいかないだろう。でも豊かということがお金や効率、便利さでしか計れなくなったらそんな世の中には生きたくない。新しいものを取り入れたら失敗することだってある。そんな時は後戻りすることがあってもよいはずだ。前進のみが良いことか?やってみた結果見えてきたものから選び取っていく柔軟さが自分の中にもほしいなと思う。便利なものももちろんあれば使うけれど、ないときにどうするか考えるのは結構楽しい。不便の中にも面白いものは沢山あるし、もしかしたらそれが心や体を健康にするかもしれない。なぜなら不便の中では体や頭を十分に働かせなければ生きていけないからだ。お金をあまり持っていなくてもみじめな気持ちにならなくてもいい社会になったらなぁ。(やぎ) |
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2025年9月6日 |
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『親切な乗務員』 |
いつもだいたい同じ時間にバスを利用している。乗客も乗務員も同じ顔ぶれだったりする。5日には気持ちの良い出来事を見た。途中のバス停から乗ってくる足の不自由な年配の女性がいる。かならず重そうな歩行車(?)を持っていて、バスに乗車するとき歩行車が持ち上がらず困っていることもある。前後の乗客が手助けしてバスに持ち上げることもよくある。こんな時老若男女外国人を問わず皆親切で気持ちがいい。わたしもお手伝いしたことがあるが、この日、時々出会う京王バスの名物乗務員(?)が、バス停に泊まる直前、階段を下りてくる、かの女性を発見したのだろう、停車するや否や運転席をパッと立って、小走りに外から女性のところに行き、歩行車を車内に持ち上げた。これは当然私の仕事ですからでもなく、自然で機敏な動作に、この人ならばと感心した。
前日、同じバスでまだ動き出していないのに、ドアが閉められたバスがドア前に立っている乗客を乗せずに走り出したのをみた。この時は車内でも「まだ動いていないのに不親切だね」という囁きが聞こえた。(宮) |
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2025年8月29日 |
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『歴史の時間』 |
戦後80年という。明治維新から80年後は昭和23年(1948)だ。昭和25年に小学校に入学した私にとって明治維新は遠い昔の歴史でしかなかった。夏目漱石の『それから』に幕末の志士の話が出てくるが、漱石にとって、40~50年まえのことで、まだ生々しい感覚があったのだろうと想像する。80年という時間は、大事件が歴史上の出来事になってしまう十分長い時間なのだろう。小学生時代に関東大震災のことを母から聞いた覚えがあるが、実感の伴う話として記憶にない。
政治の世界の出来事を見聞きするたびに、世代交代が進んでいることの深刻な影響を考える。(宮) |
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『詐欺』 |
昔から詐欺を働く人はおそらくいたと思う。以前なら訪問や電話、郵便や宅急便が主な手口だっただろう。今や、ほとんどの人がパソコンやスマートフォンを持つようになり、毎日のようにメール、メッセージ、LINE、X、Instagram等々SNSなど様々なネットを通じた詐欺の連絡がいやというほど届く。広告もしかり。情報の波の中で必要なものを選び取るのさえ大変なのに。それらの数が本当に必要な連絡よりも多すぎて、うっかり必要なやりとりを消してしまう可能性も高くなる。そのために本来ならいらぬはずの時間も奪われる。しかしこの手の詐欺がなくならないどころか増え続けているということは、数打ちゃ…の言葉の通りで、それに引っかかってしまう人が少なからずいることを意味している。
ネット詐欺の最初の頃にはメールも本物と見間違うような巧妙なものもあったように思う。その一方で、最近のものは詐欺の質も低く、明らかに詐欺だと気づきやすいものも多くなっている気がする。日本語の使い方もレイアウトもひどいものが多い。それはある意味、救いかもしれない。しかし、あの手この手で人をだまそうと考える人間があちこちにいて悲しくなる。とはいえ、もしかするとどれもこのレベルであるのを考えると、詐欺グループは1つか2つか、もしくは逆にこれならできるかもと思ってしまった複数の模倣犯かと考える。海外なら翻訳アプリを使った翻訳で校閲もせずにそのまま送る手口。日本ならAIで作成したまま文章を使っているのではないかと推測してしまう。それほどに日本語が乱れている。自分もしょっちゅう言葉を間違えてしまう、うっかり者のため、人のことは言えないが、私のそれをはるかに超えて(と思う)あまりにひどすぎる。会社に大きい小さいは関係ないが誰もが知る有名企業からの連絡だとしたら、これはないだろう?というレベルの文章なのだった。そこには悪意しか感じられない。
最近では電話詐欺の電話もかかって来るようになった。会社の電話にも個人の電話にも同じものがかかってきた。NTTドコモと名乗る録音音声の電話で最終勧告の電話。会社にはドコモの携帯を使っている人は誰もいないし、払わなければ電話をとめるらしい。さて誰のどの電話をとめるのか。とめたきゃさっさととめたら?と心で思いながら電話を切る。人を貶めるために働くことはその人にとってどんなモチベーションなのだろうか?そんな人が不幸になることに頭や体を使うなんてもったいない。どうせ頭や体を使うなら、誰かのことを幸せにすることもできるのにね。(やぎ) |
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2025年8月23日 |
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『豪雨の川』 |
相変わらず線状降水帯ができたり、台風が上陸したりして、過去に前例のないという豪雨が降る。ものすごい豪雨で、たちまち道路が冠水して住宅まで水浸しになる。床上浸水した住宅の映像を見るとその後の復旧の困難さが伝わってくる。川があれば、みるみるうちに増水して、堤防が決壊しなくても、泥水の濁流があらゆるものを押し流していく。こんなひどい状況の中で川の中に生息していた生物は、いったいどうなっているのだろう。濁流に押し流されてもその後のニュースで、生き物がいなくなってしまったと聞いたことがない。どんなひどい環境の中でもじっと耐え忍んで嵐が過ぎ去るのを待っているのだろうか。川魚が産卵のために川を遡上している映像を見ると彼らの逞しい生命力を想像することは出来るが、豪雨の時の川の暴れ方にはすさまじいものがあるので、川の中の生き物がどんな状況にあるのか気にかかる。すべての生き物が海まで押し流されれしまうのだろうか。(宮) |
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2025年8月8日 |
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『ボブ・バーンスタインの『WAR』』 |
読み始めたら、寸暇を惜しんで読みたいと思う本に、久しぶりに出会ったと思った。ニクソン大統領を辞任に追い込んだ記者の一人ウッドワードの『WAR』だ。現代世界の戦争がどのように始められるのか、政治家や軍人の誰が何を考え、どんな行動をとったかを、記録とインタビューで克明に追跡している。どんな高位高官でも、生身の人間でしかない政治家、軍人を、間近に見ているように描写していて、偏見を含む知識や、好悪の感情や、長年にわたって築き上げられてきた人間関係が、具体的な状況のなかでどのように働き、どのような決定を下していくのかが描かれている。読後感を一言でいうと「恐ろしい」に尽きる。核兵器が使われて第3次世界大戦になってしまっても少しもおかしくないことが詳細に書かれている。実に恐ろしい。アメリカ軍の軍人のトップにいる人が、トランプのことを大統領におよそ最も不適格なとんでもない狂人のごとく考えていることが出てくる。1期目のトランプ大統領の発言から戦争になるのを恐れて、アメリカ軍のトップが中国にメッセージを送ったことを記憶しているが、改めてさもありなんと思った。そしてそのトランプがいままたアメリカの大統領だ。(宮) |
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2025年8月1日 |
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『早熟の天才メンデルスゾーン』 |
面白い一文に出会った。筆者の東賢太郎さんは、いくつかの根拠を踏まえたうえで、作曲界における人類最高の早熟の天才はモーツアルトではなくフェリックス・メンデルスゾーンだと主張する。モーツアルトと比べて云々はともかく、早熟の天才たるメンデルスゾーンを認めてきた私としては、一読嬉しくなった。そしてその例証として15才で書いた初のフルオーケストラ作品、交響曲第1番が聴けるようになっていたので、早速聴いてみた。その美しい第2楽章について林さんは「この音楽はモーツアルトが20歳以降に書いた緩徐楽章をも和声の深みにおいて凌駕しており、ベートーベンが32才で完成した交響曲第2番のそれであっておかしくない水準にある。驚嘆するしかない。……彼らとて「文法」を習得するのに20年以上の歳月を要していたものがメンデルスゾーンにおいては15才で易易とマスターされ、翌年に現れる弦楽八重奏曲/真夏の夜の夢 序曲によって、まごうことなき彼自身であって後世の誰でもないことが如実に証明された個性というものの片鱗がすでにそこにある」と書いている。私は永年ベートベンの交響曲第2番第2楽章を、美しい音楽の極みと感じていたので、またまた嬉しくなった。
芸術作品の評価についての西洋と日本の違いなど、林さんの指摘はとても刺激的だが、ここではメンデルスゾーンの早熟の天才を伝える一文として、内容のごく一部を紹介した。(ネット上で見つけた
SONAR MEMBERS CLUB のサイトの「藤井聡太はメンデルスゾーンである」が、林賢太郎さんの文章。(宮) |
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『エネルギーの放出』 |
エネルギーの放出などと書いておきながら環境のことでもなんでもないのだが、ふと気づいたことがありメモとして書いておくことにする。日々会社や家庭ではこの暑さの中、クーラーのおかげで、なんとも快適に暮らしている。贅沢なことだ。
ところが大して環境や動作は変わらないのに、ふと体が熱くなることがある。なぜだろう?会社ではたいていパソコンに向かってデスクワークをすることが多く、午後の一番気温が上がる時間以外は室温はさほど変わらないのだが、自分自身がエネルギーを放出している作業があるようで、その作業をすると体が熱くなる。自分では大した作業でないと思っていても体が変化するのだから、やはり、その作業にはパソコンを使うだけのときには使われないエネルギーが使われているんだろう。で、どんな時に体温があがるかということを考えてみた。家では料理をしている時がそうだ。我が家の小さな台所では歩き回るほどの距離はなくせいぜい横に2歩ずつ、料理が終わるまでに右に左にカニ歩きする程度なのだが、気が付くと汗ばんでいる(この時は火も使うので多少は理解もできる)。そして会社では、返品で返ってきた本の改装をするときに体が熱くなってくる。椅子にすわり、カバーをかけ替えるだけで、正直そこまで体は動かしていないと思うのに、気づくと汗ばんでいるのである。キーボードを打つときには汗ばまないが、改装はもう少し力を使っているんだなと思う。こうしたちょっとした動作の違いだけで体の中は、こんなにも使うエネルギーに差がでるのかと驚く。小さな動きで体を燃やすことができる作業があるとしたらダイエットや冬の作業として取り入れたら、めちゃめちゃ省エネであり、一石二鳥ではないか。そんなことを考えると私の妄想はどこまでも終わらないのであった。(やぎ) |
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2025年7月25日 |
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『酷暑避難所』 |
北海道北見市で気温39度を記録したという。その北見市の市民住宅の状況をニュースでみた。ニュース画面では室温が35度を超えていて、窓を開け、扇風機を回して老夫婦が座っていた。北海道にはエアコンの付いていない住宅が結構残っているそうだが、室温35度は異常な高温だ。台風や地震などの自然災害と同様に、異常な高温のときには、避難所が必要なのではないか。図書館などエアコンのある公共施設に避難する人がいるそうだが、命に関わるような被害が出る前に、自治体が主導して然るべき場所に避難してもらった方が良いのではないか。(宮) |
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2025年7月18日 |
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『事実を知ること』 |
参議院選挙で、参政党の躍進が報じられている。神谷代表の弁舌によって、支持者が増えているかもしれないが、彼は面白い話、都合の良い話をするために、事実を大胆に脚色して使う。そして、その事実について知識のない人は、巧みな語り口に乗せられて信じてしまうのではないか。神谷代表は日本がアジアの国々を侵略したことなど無い、なぜなら当時は、アジアに独立国などなかったのだから、と平気な顔で言う。平気な顔が大事で、いま自分の言っていることこそが本当のことなのだという顔をしている。演説を聴いている人は、これが嘘だと分かるぐらいの知識を持っていることが必要だ。演説が事実に基づいた話なのか否か判断できるぐらいの知識は必要だろう。出来事から何十年も経って世代交代がおき、出来事が歴史になったとき、捏造された歴史、事実が語られるようになる。ドイツで、強制収容所でのユダヤ人大量虐殺はなかったという主張がされているとニュースになったことさえある。(宮) |
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2025年7月11日 |
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『チャイコフスキーの「悲愴」と「アウトロー」』 |
子供の頃、アメリカから次々入ってくる西部劇映画が好きでよく見に行った。主役のカウボーイ役の俳優が懐かしい。ゲーリー・クーパー、ジェイムズ・スチュワート、グレゴリー・ペック、ヘンリー・フォンダ、ランドルフ・スコット、ジョン・ウエイン……。ジョン・ウエインの「駅馬車」など、当時名作中の名作と言われた映画だが、現在製作されたらネイティヴ・アメリカンを虐殺していると悪評されて、…いやそもそも作られないに違いない。
テレビの時代になってもテレビ版西部劇が沢山輸入されていた。「ローハイド」「ライフルマン」「ガンスモーク」「拳銃無宿」「ララミー牧場」「ブロンコ」…などを見ていた。いまのテレビと違って、アメリカ製のテレビ映画が沢山放映されていたことを今更ながら思い出す。これらの作品に流れている音楽も記憶にあって、「悲愴」はタイトルにある通り、「アウトロー」とセットになって記憶されている。「アウトロー」は開拓時代のアウトロー=悪人が、最後に正義の裁きによってあえなく命を落とすというような結末で幕を閉じるのだが、その場面で「悲愴」の第1楽章後半の静かで悲劇的なメロディーが必ず流れていたのだ。なかでも少年のアウトローが主人公の話の回のとき(筋は憶えていないが)、かわいそうな少年の最期の場面にぴったりだったと、いまも記憶にあるのだ。(宮) |
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2025年7月4日 |
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『嘘をつく政治家』 |
学歴詐称が問題視されている田久保真紀伊東市長の記者会見のニュースを見た。こんな見え透いた嘘をつく人が市長である。学歴詐称の首長といえば、小池百合子東京都知事を思い出す。ふたりとも自分が卒業しているか否か、本人がいちばんよくわかっているのに、弁明する。田久保市長の場合、東洋大学を卒業したか除籍になったかという単純でわかりやすい問題なので、学歴詐称は逃れようがない。正直に認めて辞任して出直せばいいのに、それが出来ない、やろうとしない。どういう神経をしているのだろう。伊東市議会がどんな対応をするのか、注目したい。
あくまでしらを切り通して、最近また影響力を増大させたと見られている小池知事のような先例があるので、それに倣っているのか。とすれば、いよいよ判断が悪い。(宮) |
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2025年6月27日 |
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『ヒトを見る目』 |
嘘を付く政治家を判別する目がないと、たとえば、トランプが大統領に選ばれてしまう。ひとたび選ばれてしまうと、簡単にやめさせることはできないので、任期が終わるまでどのように付き合うか頭を悩ますのだろう。それにしても先日トランプを露骨に持ち上げる言葉を吐いたNATOの事務総長には驚いた。毎日のように発言内容が変わる大統領に付き合うことなどとても出来ないと感じるが、世界中の多くの政治家は、立場上めげずに付き合っているようである。嘘つき政治家は日本にもいるが、大事なことはそういう政治家を選ばないことだ。ということは、まず嘘つきか否かを判別しなければならない。つまり有権者は、ヒトを見る目を養わなければならない。選挙の際に、立候補者が主張している政策について考えるのではなく、嘘をつかない正直者か否かを判断しなければならないのだ。私達はこんなことを言わねばならない状況に実際に追い込まれている。だが、その目を一体どうやって養ったらいいのか。(宮) |
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2025年6月20日 |
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『イスラエル』 |
イスラエルがイランを攻撃し、イランが反撃している。どちらの国にも犠牲者が出ている。イスラエルの攻撃理由は、イランが核兵器をもつことは、イスラエルが生き続けるためには絶対に許容できないことなので、イランが核兵器を開発するのを、あらゆる手段を使って阻止するということらしい。
現代の国際関係は様々な事情から、今日あるような形になってきたので、それを無視すると理解できないことが多々ある。しかしながら素朴な疑問が湧いてくる。イスラエルはイランを先制攻撃した。これをドイツのショルツ首相は、イスラエルのイラン核施設攻撃を称賛したと伝えられている。従来からドイツはナチのユダヤ人虐殺の負い目から、常にイスラエル支持の立場を取ってきた。しかしながら先制攻撃したイスラエルを支持するなどありえないことだと思うが、現実はそうではないらしい。トランプ大統領はイランに無条件降伏しろと発言した。大国の指導者の発言を聴いて、素朴な感覚を失いたくないと強く思う。そもそもイスラエルという国家は、第二次大戦後に、アラブ人が住んでいた地域に、強引に作られた。だからアラブ人がイスラエルに敵意を抱き、双方が激しく対立し、戦ってきた。イスラエルは周囲すべてのアラブ人国家に対して自国存続のために軍備を充実し、戦いながら生き残ってきた。そして、イスラエルは核兵器を持っていると言われている。しかし、自国は核兵器を保有しているがイランを始め周辺の国家が保有することを決して許容しない。自国優先の考え方である。しかしこれはイスラエルだけのことではない。核兵器は、まずアメリカが完成させ、日本に対して使用した。その後、ソ連が開発し、さらにイギリス、フランス、中国が続いた。それから、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮と続く。今はイランの開発が激しい反発を招いているが、先に開発し保有している国は、けっして廃棄しようとはしない。そして新たに開発、保有しようとする国を激しく非難する。しかし、どの国も納得するはずがなく、紛争が激化しているのだ。こんな馬鹿馬鹿しい緊張関係が解決できなくて、結局人類滅亡に至るのではないかと想像する。
そもそも核兵器は使用できるものではないのだから、保有をやめますと宣言する先進核保有国が出て来ないものか。(宮) |
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2025年6月14日 |
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『天気予報』 |
出かける予定があれば天気予報を見る。天気は小刻みに変化するので、行路を考えて判断しようとするが、最近の天気予報は場面の切り替えが早くて視聴が追いつかない。確かに伝えるべく予定された内容は出てきているが、考えるまもなく場面が切り替わってしまう。何事もスピードが要求され、現代のテレビの技術では場面回転を早くして内容豊富な予報なのだろうけれど、実用の上からは不満が昂じる。早い話、もう少しゆっくり伝えてもらえないかと思う。(宮) |
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2025年6月6日 |
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『再び兵庫県知事』 |
ネットで、兵庫県知事の記者会見の模様を見た。斎藤知事の言動に対して、記者は礼儀正しく知事の見解を質すが、知事はほとんど質問に答えない。
第三者委員会が知事の言動の問題点、責任をはっきり指摘しているのに、「第三者委員会の指摘は真摯に受け止めるが、自分の責任は県政を前に進めることだ。」第三者委員会が知事の責任を明確に指摘している以上、責任を取るのは、辞職する以外にないはずなのに、自分の行動は適切だったと言い張って、全く責任をとる意志が無い。
こんな記者会見を繰り返しているようだが、私は、県議会が再度知事の不信任決議を出して責任を取らせるしか無いと考える。前回の不信任決議のあとに行われた知事選挙は、「2馬力選挙」などといわれた選挙だったので、再度選挙をする意味は十分あるはずだ。県議会は何を躊躇しているのかと思う。(宮) |
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2025年5月30日 |
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『トランプ大統領』 |
平気で嘘をつき、世界中を相手に関税を押し付けようとし、アメリカが模範になっていたはずの言論の自由、学問の自由を弾圧している。毎日見聞きするトランプ大統領の言動は一言で言えば滅茶苦茶である。ヒトラーの再来と言われたりする。そんなトランプが、バイデン大統領を挟んで再登場したのには驚いた。何故って、アメリカの有権者は1期目のトランプを4年間経験したはずなのに、またトランプを大統領に選んだからである。有権者はそういうトランプを確かに承知の上で選択しているのだ。
会田弘継『それでもなぜ、トランプは支持されるのか』によると、今日のアメリカ政治の混乱の原因はトランプの登場に在るのではなくて、過去数十年間にわたるアメリカ政治の失政の結果がトランプを生み出したのだという。原因と結果の取り違えを指摘している。このことは長年アメリカ政治を観察してきた識者の間では共有されている認識だという。しかし、この認識が的確だとしても、世界が直面している状況は甚だ深刻である。なにしろ、戦後80年間のアメリカ政治の失政である。アメリカ政治はなにをどう間違えたのだろうか。
世界各国は、次々打ち出されるトランプ政治に対して、さらなる混乱を引き起こさないように、難しい判断を下しながら、戦後のアメリカ政治をどう総括し、どのように改めるべきなのか考えなくてはならない。(宮) |
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2025年5月23日 |
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『団地の外国人』 |
通勤のために利用するバスに、外国人の姿が目立つようになってきたのは最近のことだ。外見から西アジアから来た人らしい。日曜日には親子3代で乗ってきた人たちに出会った。駅と団地を結ぶバスに乗っているのだから、団地に生活しているのだ。
同じバス停から乗ってくる二人が英語で話している。出身地が別で、言葉が違うからだろう訛の強い英語で会話しているのが耳に入ってきた。英語は世界共通語になっていると実感する。
言葉といえば団地内で、中国語が耳に入ってくる。外見からは日本人と区別できないが、団地にはかなりの数の中国人が生活しているようだ。
銀座のような観光客で溢れている場所とは別に、いつの間にか日本は外国人が大勢入ってきて働くだけでなく生活している社会になっているのだ。(宮) |
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2025年5月16日 |
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『浅川の草』 |
今頃の天気は目まぐるしく変動する。雨もよく降る。先日(週末)は、雨に激しい風が加わった。翌朝、浅川を歩いたら、遊歩道の両側に威勢よく生い茂っていた草が、ことごとく薙ぎ倒されている。70~80センチぐらいはあった草は横倒しにされている。この草はどうなるのだろうと気になった。そして翌週初めに歩いたら、横倒しになった草など無いのに驚いた。野生植物は元気なものだと思うと同時に、横倒し状態からからどんな経過を経て立ち直るのかを見たいものだと思ったが、残念ながらこれは叶えられない望みと諦めるしか無いだろう。長時間観察しなければ見られないに違いないから。(宮) |
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2025年5月9日 |
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『車掌からワンマン運転へ』 |
私が子供の頃は、路線バスには女性の車掌が乗っていて、バスの中扉の場所に居て「次は〇〇です。降りの方は忘れ物をなさらないよう、云々」と乗客に伝えながら、他方、「発車、オーライ」と運転士に必要な情報を伝えていた。車掌の腹部には切符を売るためのバッグを装着していて、走行中も社内を動き回っていた。切符を切る鋏を使うのは電車の改札員と同じだ。
初めてワンマン運転のバスが登場したとき、今まで二人で務めていた仕事を一人でしなければならないので、運転士になんという過酷な仕事をさせるのかと同情したことを覚えている。ワンマン運転が次第に定着していくにつれて、ワンマン運転をスムーズに機能させ、運転士の負担を軽くする様々な仕掛けが出来てきた。停留所の告知など乗客に必要な情報は、録音された音声で伝えられるようになり、切符の代わりにICカードが使われるようになった。運転士の周囲にある複雑な装置の使用についても生活の機械化、情報化に慣れてきた運転士にとっては抵抗感は随分小さくなっているように見える。
生活にせよ仕事にせよ、変化に直面したときの人の戸惑いと、変化に適応する柔軟対応が面白い。(宮) |
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2025年5月2日 |
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『明治維新100年と戦後80年』 |
学生時代に明治維新100年の節目の年に出会った。1968年というと戦後23年だから、戦争の経験と記憶が圧倒的な力を持っていた。当然左右の激しい論争が展開されていたと記憶している。戦後80年の今は明治100年とは異なり80年間戦争がない歴史を辿ってきた。戦争は懲りごりだという感情が大前提としてつねに存在し、80年も経つと左右の激しい対立もなくなった代わりに、アメリカの属国のような立場に慣れてしまった情けない政治が行われている。
しかし世界に目を向けると相変わらず各地で戦争が行われているうえに、主要国では日本同様に世代交代が進んで、明らかに歴史の見方が変化してきた。世代交代は実に恐ろしい。そして、ヒトラーに比べられるような政治家が出てきた。ヒトラーがワイマール憲法のドイツから出てきたように、民主主義の母国と自他ともに許してきたアメリカからトランプ大統領が誕生した。日本では政党政治が信頼をなくして政治が混迷を極めている。選挙をしても投票率が回を追って低くなっている。この混迷のなかからどんな政治的変動が生まれるのか、まことに危なっかしい。(宮) |
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2025年4月25日 |
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『河川敷の木々』 |
2月28日のロバ耳で、浅川河川敷の木に纏わりついた蔓性植物を取り除く人のことを書いた。今、新緑の時期になって、それらの木々がどうなっているか注目していたのだが、かなりの木が新芽を出していないのに驚いた。枯れてしまっているらしい。どんな原因でそうなるのかわからないが、しかし、木々には個性があって、新芽の出る時期もまちまちだと思っているので、枯れたわけではないのではないかと毎日それらの木々を眺めている。(宮) |
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2025年4月18日 |
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『雉の声』 |
春になって、浅川の土手、河川敷の草や木は芽を吹き出した。天気のいい朝、会社に向かって歩いていたら河川敷の草叢から雉の声が聞こえる。以前から雉の声は聞こえていたが、草叢に隠されていて、めったに姿を見ることは出来なかったのに、この日は歩いていくにつれて声がするうえ、中には珍しく全身をすっかり現しているものまで見ることが出来た。声を出すのは縄張りを主張するためだそうだが、以前と比べると雉の声のする場所が明らかに増えている。確かに適当に離れた場所から声がする。この河川敷で縄張りを主張する雉が増えているのだろう。(宮) |
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2025年4月11日 |
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『浅川の桜』 |
毎日歩いている浅川に桜並木がある。40本を超えるが、老木のうえ大きな枝を大胆に切られているので、元気がない。枝の先の方には花も葉もつかなくなっている木が結構ある。そんな桜並木だが、今週初めには七分咲きになっていた。そして今週、朝のうちは毎日陽が出ていたので、7分咲きが翌日にはほぼ満開になり、その翌日も前日同様に咲いている。こうなると老木といえども華やかな桜の姿が優って、見るものを楽しませてくれる。折から河川敷の木々も新芽を吹き出し始めて、春の息吹を味わわせてくれる。(宮) |
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2025年4月5日 |
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『浅川の氾濫』 |
浅川に沿っている道路の電柱には、浅川が氾濫すると○メートルの浸水があるかを予想した市役所の表示が貼ってある。場所によって2メートルだったり3メートルだったり、きめ細かに書いている。その表示のすぐ脇には住宅が建っているが、それは堤防のすぐ下に位置している。したがって、現実に氾濫が起きたら、例えば1階部分は水没してしまうということなどががわかる。市役所のこういう表示は、浅川沿いの道路だけでなく、川からだいぶ離れた場所にも貼ってあるのを発見した。児童館の近くに立てられている電柱にも、だいぶ数字は小さいがやはり浸水すると書いてある。近頃の異常気象、異常豪雨を経験した後では、単なる注意喚起とは思わず、氾濫、浸水があったときの対策を真剣に考えておかねばならないだろう。(宮) |
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2025年3月28日 |
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『特別扱いのお願い』 |
テレビニュースをみている限り、トランプ大統領が輸入自動車に25%の関税を掛けると発表し、日本政府は、その扱いから日本を除外するように交渉している。日本だけ例外にしてほしいとお願いしているらしい。聴いていてその態度に恥ずかしさを覚える。アメリカの理不尽な政策にすこしは毅然とした態度が取れないものか。自動車関税問題なら、輸出国であるドイツや韓国と協力して、アメリカに政策変更を求めれば良い。自国だけ特別扱いしてくれとお願いしている態度には納得できない。
トランプ大統領の自国優先主義の政治に世界中が影響を受けて、国際関係が根底から変化し、経済は混乱=大不況に陥るかもしれない。トランプ大統領のやり方が暫く続くとすれば、これまでの行きがかりにとらわれず、外交政策を根本から見直すことが必要だと思うが、ニュースから聞こえてくるのは情けない属国根性のお願い外交ばかりだ。(宮) |
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2025年3月21日 |
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『卒業式』 |
3月19日、事務所の近くにある七生中学校は卒業式だった。この日の朝は水っぽい雪が降っている生憎の天気だったが、和服をきた人が校門をくぐって行く。「卒業式」の大きな看板が雪まみれになっていた。どんな天気であれ、卒業式を迎える生徒と家族の気持ちを思いやった。そして、私ははるか昔の小学校の卒業式での出来事を思い出す。式が終わってクラス全員が、いい天気の校庭に出て、いくつかのグループごとに写真をとったが、そのとき担任の先生が「こうやってクラスの全員が揃っているのは、今日が最後なのだからね」と言った。「そうか、こうやってクラス全員が集まることは、今日で最後なのだ」と感傷的な心持ちになったことを忘れられない。卒業の記念品として学校がくれた印鑑を、今でも使っていて、使うときには卒業の記念品だということを思い出す。(宮) |
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2025年3月14日 |
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『兵庫県知事』 |
兵庫県知事を巡っては、斎藤知事のパワーハラスメントから、内部告発、公益通報、職員の懲戒処分が問題になり、挙句に県会議員の自殺まで問題がおおきくなった。その後、県議会での満場一致の不信任決議が通過して、知事選挙になったが、ここでは公職選挙法の規定を搔い潜って2馬力選挙といわれた珍妙な選挙運動が行われ、斎藤知事が再選された。そしてその後、100条委員会の報告が提出されたが、知事は「一つの見解」と言い放って、これを無視している。過去の知事不信任決議と100条委員会の報告の時間的におかしな前後関係など、これまでの経緯の中には関係者の様々な失策があったようだが、100条委員会の報告の重みは無視されるべきではないだろう。様々な失敗は失敗として、知事や県会議員などの政治家が最低限筋の通った責任ある対応をすることが大切だ。知事の記者会見での答弁を聴いていると、私は、県議会は再度の不信任決議を通すことが筋の通った行動だと考える。(宮) |
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2025年3月7日 |
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『バスの運転士』 |
通勤で毎日バスに乗っている。いろいろな運転士がいる。座席が空いているのに立っている人があると、「空いている座席に座ってください、それが一番安全なのですから」と車内放送を繰り返す。この運転士は、停留所に止まる前に座席を離れると、「まだ立たないでください、ちゃんと止まってから立ってください」と強い口調で要求する。乗客は、逆らわずに言われたとおりに行動している。
停留所の案内には録音テープが使われているから、運転手が車内放送をしなくても済むので、ほとんど喋らない運転手もいる。また、なかには私の老化した耳には、何を言っているのか聞き分けられない車内放送もある。
そんななかで、マニュアル通りに喋っていますというのとは全く違う気持ちのこもった車内放送をする運転手もいる。時々その運転手に出会うと、特徴のある喋り方なので「ああ、あの人だ」とすぐに分かる。一体何という人なのだろうかと表示されている名前を見た。Sさんとわかった。ところが、だいぶ間をおいてまたその声を聴いたときに、名前を見たらMさんだ。「ええ!こんなそっくりさんがいるのか」と驚いた。でも、世の中に無いことではないと思っていたが、最近また出会ったときに、終点で最後に下車して、運転士に尋ねた。「あなたとそっくりな話し方をするSさんをしっていますか」と。そうしたら「はい、私です。運転手の名前を別にしました」と。同一人だったわけだ。(宮) |
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『誰だっけ?』 |
ある日会社を遅刻しているのにふらふらと南平で会社の本の在庫を少しストックできそうな物件がないかとうろうろと歩き回っていたときのこと。後ろから「こんにちは」と自転車に乗ったおじさんに声をかけられた。顔をみるととてもいい人そうな顔がこちらを見て笑っている。はてどこでお会いしたのかな?と思うが思い出せない。「え~と」と言うと、あ、自分のことをこの人はわからないのだとおじさんは察したようだ。そしていつも畑の横辺りでみかけると言われる。はてどこの人だっけ?ご近所さん?おじさんは後ろ姿であれ?そうかなと思って声をかけてくれたらしい(もちろん名前もお互い知らないのだが)。今日は少し離れたところに野菜を買いに行った帰りだとのこと(朝市でもあるのだろうか)。自転車の後ろに牛蒡があった。朝早くからまめな方である。ちょうど家に帰るところだというので会社に行く私とは同じ方向に歩くことになり、おじさんは自転車にまたがったまま、わたしのペースにあわせ足をけりながら進む。おしゃべりしながら。「Tさんの隣の方ですか?」「違う」「畑のある並びの道路の向こうの角?」「違う」となり、進むうちに到着し、ここだよと畑を過ぎ畑の斜め前のお家だとわかった。「ああ!ここでしたか!Yさん(表札もちゃんと見て名前を初めて認識)」と私。「そう」とおじさん。そうだそうだ、時々外に連れ合いの方と車でお出かけするところに出くわして挨拶していた家だった。おばさんはとても品のいい感じの方だなと思っていたが、外でお会いしたら気づかないかもしれない。その家にいると家とセットでご近所さんと覚えていて、ちゃんと顔を覚えていなかったことがわかりちょっと恥ずかしかった。今度お会いしたときにはちゃんとその人とわかるかな。挨拶というのはこんなふうに人と人と親しくなるきっかけとなり、ほんの数秒のことでもちゃんと人は覚えてくれるのだということを知る。顔も名前も覚えられない私だがこういうふうに親しくなることは好き。嬉しい。おじさん、誰だっけ?なんて心の中で言ってごめんね。これからもよろしくお願いします。(やぎ) |
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2025年2月28日 |
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『浅川河川敷の木々』 |
浅川を毎日歩いているといろいろな人に出会う。いろんな出来事に出会う。ジョギングや、散歩の人、犬の散歩の人、中学・高校の授業で走っている生徒、国土交通省の見回り担当者、それからゴミを見つけて収集している人。そして先日、これまで出会ったことのない人を見つけた。その人は、河川敷の木と格闘している。
浅川河川敷には草だけでなく木々があちこちに生えている。しばらく前に護岸工事が行われたときに河川敷の木々はかなり伐採されて河川敷が広く見渡せるようになったが、それでもなお小さな木々は残っていた。近頃はその木々に蔓性の植物がまとわりついて、数年のうちに元の木々の姿が見えないほどになってきた。1本1本の木が蔓植物にすっぽり囲われてしまっていた。最近は蔓植物の生命力の強さに感心して眺めていた。真冬ですっかり茶色に枯れてはいるが、相変わらず元の木の姿が見えないほどにまとわりついている。ところが数日前の朝、事務所目指して歩いていたら、柄の長いハサミを使って蔓植物を取り除く作業をしている人に出会った。丈の高い木ではハサミが届かなくて、苦労していたが、蔓植物が除去された木は、久しぶりに邪魔されずに陽の光を浴びている。作業をしているのは河川管理の関係者ではなく、ボランティアで作業している一般の人らしい(これは想像)。すでに蔓植物が除去された木々を歩きながら見ていくと、春を迎える前の化粧直しをしているようで、清々しい雰囲気が出来ていて、嬉しくなった。
春になって、新芽が出始めたら河川敷の木々がどんな姿を見せてくれるのか、楽しみに待っていよう。(宮) |
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2025年2月21日 |
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『トランプ大統領』 |
トランプ大統領批判の論評が、新聞やネット番組に出てくる。アメリカ第一といって打ち出す政策が、世界をどれだけ混乱させ、疲弊させるか、トランプ政権は分かっていない、というか無視しているようだ。フランシス・フクヤマや藤原帰一の正面切った批判は、トランプ大統領出現以来の状況の深刻さを裏書きするものだ。学者やジャーナリストの一部が1938年のミュンヘン協定やワイマール共和国に言及しているも同様で、そこには歴史の教訓に思いを致しつつ、この難局をどう切り抜ければいいのかという苦悩を読みとることができる。1938年との最大の違いは、核兵器の存在の有無だろう。核兵器の使用をちらつかせながら相手を威嚇するプーチンが、現代の危機状況の主要当事者の一人なのだから恐ろしい。当面、トランプ大統領に対するアメリカ国内世論の動きと、ヨーロッパ各国がどこまでまとまって対応できるかを注視したい。(宮) |
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2025年2月14日 |
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『明珍先生』 |
『ロザムンドおばさんの花束』のなかの1篇「初めての赤いドレス」には、売れない画家タミー・ホーディーが出てくる。ピルチャーの作品だから最後はほのぼのとした結末になる。画家としてどんなに才能があっても、絵が売れるとは限らないし、世の中に知られないまま消えていく画家が大勢いるだろう。「初めての赤いドレス」はそんな事情のなかでタミー・ホーディーが偶然と幸運に恵まれるという話だ。
私はタミー・ホーディーが、以前中学の教師をしていたという一節を読んで、突然中学時代の美術の明珍先生を思い出した。明珍という珍しい名前で、教師らしくない印象の先生だった。何を教わったのか全く記憶がないが、この名前が、甲冑師の家の名前だと言うことを知って、大鎧の袖の美しい柄に興味を持っていた私には、明珍は単に珍しだけでなく、きっちり記憶に刻まれた名前になった。(宮) |
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2025年2月7日 |
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『選挙と独裁者』 |
とんでもない人物が、超大国アメリカの大統領になった。
トランプ大統領が就任してから、矢継ぎ早に独自の政策変更策を打ち出している。WHO脱退やパリ協定脱退、2021年1月の連邦議会乱入事件の逮捕者1500人に対する恩赦、カナダとメキシコに対する25%関税、グリーンランド領有、ガザ地区住民の集団移住とガザ地区のアメリカ統治の主張等々。自国より弱い相手に対する恫喝と取引の強要。
どれをとっても、とんでもない乱暴極まる政治行動だが、アメリカ以外の世界は、これにどこまで対抗することができるのか。民主主義の祖国のはずのアメリカで、力に物を言わせて世界中を引っ掻き回している。しかしながら乱暴な政策は乱暴な政策と言うしかない。その存在をしっかり認識することが大事だと思う。よけいな忖度は必要ない。1930年代のドイツの独裁者ヒトラーも、選挙を勝ち抜いて首相に就任した。その後のナチス・ドイツの華々しい動きを見て、当時の日本ではバスに乗り遅れるなという主張が結構力を得た。そして日独伊三国同盟にまで行き着くのだ。その先は第二次世界大戦での敗戦だ。
どんな付き合い方をすればトランプ大統領と仲良くなれるのかを必死になって考えるのは、相手がどんな人物であれ、選挙で選ばれた超大国の大統領なので、とにかく親密な人間関係を築かなければならないという固定観念に囚われているのだ。(宮) |
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2025年1月31日 |
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『道路陥没』 |
埼玉県八潮市の道路陥没問題で、ニュースに県知事の談話が取り上げられた。なるべく水を使わないようにという趣旨の発言だったので、驚いた。日常生活を水なしで出来るわけないのに、知事がなんという発言をするのかと思った。ほかに言うべきことは無いのか?知事は事故の現状を説明し、どんな対策を取りつつあり、その中で市民にどのように対処して欲しいのかを、きちっと話したのだろうか。ニュースではそのへんがさっぱりわからなくて、知事が無責任な発言をしているのか、そうではなくて、ニュースの伝え方が知事の発言の大事な部分を伝え損なっているのか、よくわからない。このような大きな事故で、住民に甚大な影響を及ぼす問題を、住民にどのように伝えるべきなのか、行政とメディアの両方とも問われている。最近ますます増えているように感じる地震に関しては繰り返し経験してきて、伝え方が改善されたと思うが、道路陥没などというこれまでにあまり経験してこなかった問題では、ニュースに戸惑うばかりだ。(宮) |
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2025年1月24日 |
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『ラデツキー行進曲』 |
ウイーンフィルニューイヤーコンサートの最後に演奏されるのはラデツキー行進曲。長年聴いてきたので、新鮮な喜びを感じることがなくなったようだ。この曲を聴いて思い出すのは、毎年秋に行われていた小学校の運動会の終盤で流れてきた行進曲を、なんて軽快で調子がいいメロディなんだろうと思って聴いていたことだ。1度だけでなく年を越しておなじ小学校の運動会で、またこの曲だと思った記憶がある。当時の教師の誰かが、この曲を使っていたのだろう。聴いた当時はもちろん曲名など知らないで聴いていただけだが、それが後にラデツキー行進曲だとわかった。
すこし靄のかかった夕暮れの運動場に流れていたラデツキー行進曲を懐かしく思い出す。(宮) |
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『生きた言葉を』 |
テレビの報道やニュースを見る度に思うことがある。生きた言葉が聴きたいと。何か事件があり、政治家や、その会社の責任者が話す言葉への違和感。特に近年何代かの総理大臣になった人たちの話す言葉やその周辺の人たちが話す言葉に「形だけ」を感じ、心が入っているのだろうかと疑問を持ってしまう。気持ちが伝わってこないというのが一番つらい。「で、立場上の言葉ではなく、あなたの本当の気持ちは?」と迫って聞きたいくらいだ。あなたの今話す言葉の中にあなたはどのくらいいるのかと。
私たちは全てのものに上手(うま)さを求めるわけではない。私たちは完璧を求めているわけではない。音楽、作品、文章、話す言葉の中にその人がいて、その人が表現したい何かに心動かされるのではないだろうか?本当に伝えたいことが伝わらない演説はただの音でしかなく、その言葉に人は動かされない。目を向けていなかったのにその言葉が生きていたら、はっとして手を止めるのではないだろうか。無論、その言葉を聴こうともしないで、届かないこともあるだろう。使い古された言葉は悪いわけではない。しかし、問題が出てくると判を押したように「誠に遺憾です」や「痛恨の極み」「不徳のいたすところ」とみんなが口にすることの違和感はなんなのだろうか。人が違えばもっと違う表現もあるだろうに。定型文のように感じてしまうのは今話すその人の心がそこにのっていないからなのではないだろうか?もし同じ言葉であってもその人の心からの言葉なら聴こえ方が変わるのではないかと日々言葉について考えてしまうのであった。もちろん聴く側の気持ちも大いに関係するのだろうけれど。(やぎ) |
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2025年1月17日 |
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『阪神・淡路大震災』 |
阪神・淡路大震災から30年もたったということに驚く。自分の当日の行動をつい昨日のことのように思い出す。八王子の自宅で17日の明け方、兄の次男の電話で目を覚まされた。甥の声が普通でなかったので、朝っぱらからふざけているのかと思った。兄夫婦は倒壊した建物にとじこめられ、兄は呼びかけても返事がない、兄嫁は呼びかけに応えている、ということだった。家族が災害に巻き込まれたわけで、私は、それからすぐに現地へ行くことを決めた。当時、東京の大学に通っていた、兄の長男と一緒に行くことになった。
朝9時頃には自宅を出発したが、兄一家が住んでいた西宮で、助け出された兄嫁が入院している病院にたどり着いたときには、18日の午前1時を回っていた。それから亡くなって、警察署の地下駐車場に寝かされている兄と対面したのだった。その後の数日間、さらに暫くの間、数々の忘れがたい経験をすることになった。(宮) |
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2025年1月10日 |
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『年を重ねる』 |
大勢の人が集まる街なかに出たとき、ある感覚を意識する。
渋谷、新宿、いやもっと小さな街でも、街なかに出ると、何十年前も今も赤ん坊から老人まで、実に様々な年齢の人の姿が目に入ってくる。都会とはそういうもので、ヴァラエティに富んだ人たちが存在している場所だ。そして考えてみると、例えば70年前には子供の目で様々な年代の人達を見て、いろんな人がいるなあ、だけど自分は子どもの仲間だと思い、60年前には学生の目でみて、いろんな人がいるなあ、だけど自分は20代の若者の仲間だと思い、40年前には壮年の勤労者の目で見て、いろんな人がいるなあ、だけど自分はああいうサラリーマンの仲間だと思った。今は老人が増えたといってもやはりヴァラエティに富んだ人たちがいるじゃないかと思って見ている。そしてたしかに、いつでも、眼の前には、赤ん坊から老人までヴァラエティに富んださまざまな人たちがいる。ただ当たり前だが、自分の属する仲間の年代はちゃんと変わってきた。いつもヴァラエティに富んださまざまな人が存在しているけれど、自分はその中で世代の進行にしたがって属する仲間が変わっていき、やがてこの世から消えていくが、街なかのさまざまま人々の姿はいつでも変わらず、ヴァラエティに富んだ景色を見せているのだろうと思う。(宮) |
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『今年もよろしくお願いします』 |
新しい年が明け月曜日から仕事始め。去年は、春先に前触れもなく襲ってきたぎっくり腰から始まり、なんとも50代半ばにさしかかる年齢を意識する一年だった。年末年始は間違って頼んだアメリカンサイズの冷たいドリンクをムリムリ飲み干したあとまんまと久々の風邪をひき、現在も若干年末からの風邪をひきずり気味である。今年は、去年の二の舞にならぬよう、無理のない範囲で人生を楽しみたいものだ。自分自身の心と体に問いかけながらなんとか元気に過ごしたいと思う。そんな年齢の山を自分の中に感じるものだから年上の先輩方がきびきびと日々を過ごしているのをみるとなんだかとても恥ずかしくなる。なぜあんなに軽やかに動き、楽しそうにできるのだろうか。まだ私はたったの50代半ばなのだ。90歳や100歳の元気なお年寄りたちが沢山いる昨今。彼ら彼女らに出会うたび、あんなふうに年を取りたいなと思う。さて、この一年もぼちぼちとがんばっていこう。(やぎ) |
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