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「王様の耳はロバの耳」(2020)
 
   
2020年5月29日
『新型コロナウイルスの前と後』  中国武漢の都市封鎖のニュースから始まった新型コロナウイルス感染問題は、2月初め横浜港に寄港したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセスの船内感染、2月半ばの屋形船における感染から他人事ではなくなった。3月末には朔北社で自宅勤務を始めることになったほど急な動きだった。  個人的な感覚では、『関東大震災と中国人虐殺事件』の出版の前後で世の中も、自社の仕事もすっかり様変わりしたと思う。3月9日に『関東大震災と中国人虐殺事件』の著者今井清一先生が急に亡くなられるということがあり、昨年暮れまでの数年、同書編集のために足繁く先生の自宅に通っていた私には、コロナ禍の現在は別世界に生きている感じがする。先生の元に通っていた時間が何者にも代えがたい貴重なものであったと思えるのだ。
 今、感傷的になる気持ちをじっとこらえて、コロナ禍の新しい世界をどう生きていくのか考えている。
(宮)
   
2020年5月22日
『気になること』  この時期、事務所の座敷左手の庭は新緑を過ぎて旺盛な生命力を見せつけるように、敷石が見えなくなるほどに生い茂っている。毎日飽かず眺めている。  『週刊文春』が書いた賭けマージャン問題で、黒川検事長は一気に辞職することになった。安倍批判の論陣はこの問題をめぐって沸騰している。さらに河井議員夫妻の事件や「桜を見る会」の刑事告発がこれからどんな展開を見せるのか?モリカケ問題の赤木俊夫さんのこともある。検察当局がどんな動きをするのか注視していきたい。安倍首相も年貢の納め時になるのではないか。  コロナウイルスが感染問題では政府の失政を数限りもなく挙げられるが、諸外国に比べて死者の数は確かに少ないのだ。その原因はなんなのかを知りたい。それと「自粛」を強要された中小零細企業、個人がこの先どうなるのか、他人事ではなくて、日夜考え続けている。(宮)
   
 
『ボケ気味』  最近ちょっとボケ気味だ。周りの人は言うだろう。「いつものことじゃない?」いえいえいつもよりすごいことをお伝えしなければ。ほぼ毎朝、朝食用に一杯ずつそして夫と私の水筒に1本ずつ入るくらいの量のコーヒーをドリップで入れる。そうするとサーバーに残るのはカップに一杯くらいのはずだ。昨日、自分の水筒に入れ、夫の水筒にもいれたはずだったが、おや、いつもよりコーヒーが多いではないか。どうしたことかと、大きなカップに二杯もお代りしてぐびぐび飲む。会社についてしばらくしたら夫からメールが。「俺の水筒にはコーヒーが入ってない!」ああなんてこった!コーヒーは入れすぎたんじゃなくて入れ忘れていたのだ。よくもあの量をみて疑問をいだかなかったか謎である。どう考えても残りが多すぎたのは明らかだ。コーヒーサーバーは泉ではない。自然にコーヒーは湧いてこない。ボケもほどほどにしなければ…。その自分のボケ具合になんだか笑ってしまった。朝からコーヒー飲みすぎだろ!(やぎ)
   
2020年5月15日
『検察庁法の改正』  法改正について、ツイッターが1000万件を超えたという説さえあるほどの反対が巻き起こっているが、政府与党は強行採決の方針を変えていないらしい。成り行きを注視しているが、3つのことを考える。
 第1に政府与党の姑息なやり方には呆れるほかない。コロナウイルス問題に紛れて法改正をしてしまうだけでなく、検察官の定年延長を一般の国家公務員の定年延長とセットにして、一括提案している。一括提案することで、性格が異なる検察官の定年問題を、法務大臣の説明すらしないまま突っ走るつもりだったらしい。
第2に国会での質疑、記者会見での説明を聞いても、政府与党の言葉が信用できないこと。これまでの様々な問題についての安倍首相の言葉を聞いてきた経験から、この問題についても言葉がまったく信用できない。首相、大臣、議員の言葉が信用できないのでは、議会制民主主義の存立基盤が存在していないに等しい。
 第3に、これほどの危機に、自民党、公明党から、法案に対する疑問の声が出てこないという異常事態。5/12に郷原信雄氏はツイッターで23人の自民内閣委員の実名を列挙して、「良心に恥じない行動を」と述べ、覚醒を促した。そのせいか、泉田議員が強行採決を批判して内閣委員会を外された。15日午前段階で、石破、船田、岸田の3議員が法案に反対あるいは疑義を唱えたと報じられているが、このあとどういう動きがあるのかないのか?
(宮)
   
 
『灯台下暗し』  毎年ゴールデンウィークというと、上野の森親子ブックフェスタでお店を出す事のほか、もう1つ大事な用事が私にはある。今年はコロナで両方とも流れてしまった。私のもう1つのゴールデンウィークの楽しみ…それはここにも何度か書いたが中学からの同級生のおうちにおじゃまして、その庭でさくらんぼ摘みをさせてもらうこと。
 たった一本の枝には小ぶりだけれどかわいくて甘ずっぱい恋の味のような(そんな恋はしたことはないが…)さくらんぼが山のように収穫できるのだ。数年前から友人がさくらんぼ摘みに招待してくれるようになって学校時代の友人ほか3名とその子どもも加わって楽しいひとときを過ごす。なにを隠そうわたしは果物の中ではさくらんぼが一番好きなのだ。バナナ(これも好きだが)と違い、ちょっと値段が高いので、毎日は食べられないが季節ものなのでこの季節ばかりはと多少奮発してせっせと食べる。
 友人宅のさくらんぼはムシャムシャ食べるにはちょっと小さいので、収穫したものは各家庭でジャムにする。するとさらにルビーさながら透明感のある赤い色で食卓に花を添えてくれる。その友人が今や会社の同僚になっているので花が咲いた頃から、その様子を時折さくらんぼの情報をくれる。しかし、このコロナである。今年はやめようということになった。木の持ち主の友人宅でも今年は摘むのを断念するという。「今年は鳥さんたちにみんな食べてもらうことにした」との事。私が「私も鳥になろうかな」というと友人は笑って「もしよかったら一人でくる?」と言ってくれたが、それも迷惑だろう…。「いやいや鳥の格好をして庭にいたら笑ってね」で話は終った。鳥の格好をした自分を想像してちょっとおかしくなって心の中で笑う。でかすぎるから…。今年鳥たちはさぞかし喜んだことだろう。毎年人間との競争だったのだから。
 ゴールデンウィーク過ぎたある日のこと。今住んでいるメゾネット住宅のゴミ捨て場に種や実や葉っぱが沢山落ちていた。そういえば去年ここに引越してきたばかりのときもこんなのがいっぱい落ちていて、箒で掃いたのを思い出した。その実や種をよくよく見てみる。そして気づいた。「あの実だ!」どこから落ちてきたのだろう。見上げてみると、お隣の木からさくらんぼがキラキラしながらたわわに(?)ゆれていた。下に落ちた種はどうやらここも鳥たちが食べたらしい。そういえばここのところかわるがわる鳥の集団が時間差でやってきていたなあと思い出した。みんなでおいしいものがここにあるよと教えあっていたのだった。こんなにすぐそばに私の好きな実がなっているとは。でもお隣の木なことが残念だ。来年は指をくわえてみているしかないだろうか。それから3日ほどして木からは実がなくなった。すっかり食べたのだろう。来年は私も鳥になりたいなと思った。
(やぎ)
   
2020年5月8日
『またまたコロナウイルス』  コロナウイルスをめぐる問題がすこし分かってきたので書く。強い感染力を持つ新型コロナウイルスの流行は、ワクチンができ治療薬ができるまでは感染を拡大させるわけにはいかない。感染者が一気に増えたら医療機関が対応できなくなるからだ。医療崩壊と言われている事態だ。いずれの国・地域も感染拡大を防ごうとするのはもっともである。
 ワクチンに関してはトランプ大統領のように年内にできるという意見もあるが、専門家によると1年半ぐらいはかかるという。そうなると、あと1年ぐらいは感染拡大を防ぐための行動を取らなければならない。それが外出や営業の自粛が求められる理由であろう。あと約1年の間感染拡大を防ぎつつ生活を維持するための経済活動を支援することが政治、行政の仕事である。この課題をどのように解くのか?オリンピックや習近平来日や総選挙や都知事選挙という夾雑物を除外すれば、コロナウイルスをめぐる問題は、状況認識と課題の設定と取るべき対策という形に整理できる。この問題に如何にに取り組むかが政府と地方自治体の仕事のはずである。
 武漢の食肉市場で新型ウイルスの感染が発生したと報じられたときには、問題の性格が把握できなかった。クルーズ客船内での感染拡大が大きなニュースになっても他人事でしかなかった。中国、韓国で感染者がみるみる拡大し、死者が増え始め、都市封鎖されたときに問題が眼前に迫ってきた感じがする。このとき政府当局と自治体が先に触れた夾雑物に影響されず、新型コロナウイルス問題について「状況認識と課題の設定と取るべき対策」に向き合っていれば事態は違っていとはずだ。
 現実には夾雑物に支配された、ゆがんだ状況認識に基づいて行動していた。それから現政権のおよそ信頼感に欠けた判断と行動が今日の状況を作っている。
 にもかかわらず感染者が爆発的には増加せず死者の数が諸外国に比してすくないのはなぜだろうか。国民が政府自治体の指示に従順に従うこと、日常生活の衛生的であること、医療機関の献身的活動が原因なのではないかと思う。
 現下の大問題は、自粛要請と補償がまるでアンバランスなことが人びとの生活を破壊し、経済活動を沈滞させることだ。政府、自治体の愚かな政策の数々をいちいち挙げるつもりはないが、それでも「新しい生活様式」とか言って、箸の上げ下ろしにまで指図する政府の愚劣さ加減には呆れるしかない。
(宮)
   
2020年5月1日
『ケネディ大統領暗殺』  昨晩ケネディ大統領暗殺事件を扱った番組をテレビで見た(NHKスペシャル 未解決事件FILE9)。67年前、日米間で初めて衛星中継で放送されたのがケネディ暗殺のニュースだったことをいまでも鮮明に覚えている。現役の大統領が暗殺されるという大事件は、未だに謎に包まれているが、その真相をドラマと記録の両面から描くという作品だった。犯人とされたオズワルドは海兵隊員として厚木に勤務していたという。オズワルドの人生を辿りながら、ケネディ暗殺には背後に黒幕が存在するということを膨大な記録資料にもとづいて主張するらしい。殺害される直前にオズワルドが「はめられた!」と叫んだことがわかっていて、政治の世界の陰謀がどこまで解明されたのか興味津々で、後編を待っている。
 政治の闇の世界は67年前に戻らなくても、またアメリカに限らず存在する。もちろん日本にも。闇から事実を掘り起こし、真実を明らかにするべくいろんな活動がなされている。我々も出版という仕事でその一角を担っているつもりだ。
(宮)
   
 
『コロナとポンちゃんラーメン』  5月7日までを予定していた緊急事態宣言が延長になる。世界の様子を見る限りそうなるだろうと予想はしていた。しかし、このままでよいはずがない。いつになるかわからない経済活動の開始、学校の再開を、ただ家の中で終息をじっと待てるほど会社も個人も余裕はない。アベノミクスの効果といわれた景気の快復をどれほどの人がその当時に実感できただろうか。事実、日々のニュースは決ったといいながら現在に至るまでに実行されたものの少ないことこの上ない。苦境にある国を救うのは容易なことではないだろう。けれどこの苦境の中にあり、動かぬ政府を尻目に国民たち自身が生き残るためにあちこちで動き出している。待つだけではなかなか世の中は変らない。人に上も下もないと思うが、1日仕事がないだけでも脅かされる者の生活など想像だにできないのだろう。誰もが貯金があると思ったら大間違いだ。想像できないなら知ろうとしようよ、見に来ればいいよ、そして体験してみたらいい。
 話は変るがポンちゃんラーメンのこと。緊急事態宣言がまもなく出るだろうと思われる数日前のこと。トイレットペーパーであまりにも精神的にダメージをうけた私は買いだめほどではないが、その日暮しにならない程度に災害にも備えて毎日少しずつ、日持ちする食材を買っていた。ある日袋ラーメンでもと思ったが、みんな同じことを考えるようだ。久々にペーパー類やマスク以外でガラガラに空いた棚を見た。しかし何か残っている商品もあるではないか!棚の一番下の段にみたことのないメーカーの、かわいらしいネーミングの袋ラーメン(5袋入)があった。こんな時もやはり有名メーカーのもの(普段食べなれているもの)が真っ先に売れるようだ。ポンちゃんラーメンはどこのメーカーなのかしらと袋をしげしげと見つめると、おお長野県のメーカーだとわかる。そうかポンちゃんは長野からやってきたのか。こんな時でないと買わないだろうと試してみることに。非常用に買ったのだが早速食べたくなった。期待をしていなかったのだが、なんともさっぱりした醤油味。人によって評価は違うかもしれないが我が家では大好評だった。コロナがポンちゃんとの出合いを作ってくれたのだ。調べてみるとこのラーメンはかなり古い歴史があり長野県では最初に作られたインスタントラーメンなのだとか。ポンちゃんのメーカーである信陽食品が出来た1964年当初から今も変わらず存在しつづけるポンちゃんラーメン。間違いなくロングセラー商品で長野で愛されるラーメンなのだろう。最後の1袋となり買ったスーパーへ行ったがもう置いていない。なんてこった!ポンちゃんにまた会える日は来るだろうか?またフイに会いたいラーメンとなったのだった。この機会に普段買わないものを買ってみようと思うきっかけをありがとうポンちゃん。
(やぎ)
   
2020年4月27日
『放送』  日曜日昼の「NHKのど自慢」は中止にされていた。コロナ問題で放送も変形を余儀なくされている。ニュース番組で司会者の1人が別室から出演するくらいだから、出演者と観客が密集する「のど自慢が」中止になるのも当然だ。いろんな番組が人と人の間を大きく空けており、解説者、コメンテーターなどが自宅から出演することも普通になった。 「コロナ」が今後どうなっていくのか予測できない状態では、変則放送も当分続かざるを得ないだろう。変則の形もいろいろに変化している。「笑点」にチャンネルを回したら、客席に大きく間を空けて観客がいた。前には観客無しで放送したり、再放送で済ませたり、過去のものを編集したりといろいろ試みている。
 その点、ラジオは変化が小さいようだ。「昼の憩い」も「深夜便」もこれまで通りの形だし内容である。
 放送の形と内容も、仕事の仕方と同様、「コロナ」以前には戻らないのではなかろうか。
(宮)
   
2020年4月17日
『またコロナウイルス』  コロナウイルスの影響はますます大きくなってきた。世界中で翻弄されている。感染の状況、政府や自治体の対応、姿の見えない相手に翻弄されている人びとのニュースや情報が溢れている。何が問題なのか、何が危険なのか、自分はどんな行動をするべきなのか?今起こっていることを的確に知って、自分の頭で考えることが大事だと思う。日本政府がしていること、全世帯にマスクを2枚配布することのバカバカしさ、生活を支援するための給付金が30万円から10万円に減額されて全国民配布に変更されるらしいことなど、毎日不満、批判の種は無数に湧き出てくるが、すこし頭を冷やして考えることも大切で、そんなことを教えてくれる一文に出会うとほっとする。そのひとつは、藤原辰史「パンデミックを生きる指針―歴史研究のアプローチ」だ。岩波新書HP「B面の岩波新書」に掲載されたもの。100年前のスペイン風邪を取り上げ、今回のコロナウイルスと比較している。人間は歴史の教訓を活かすことができない、まことに不完全な存在だと改めて思う。(宮)
   
2020年3月26日
『コロナウイルス』  世界中がコロナウイルスに翻弄されている。日本はこれから感染者、死者が増えるのだろうか。これまではオリンピックを控えて検査数を絞っていたらしい。信頼できない発表が不安感を増幅する。赤木俊夫さんの妻の手記にたいする首相や、政府要人の発言を聴いているとこの人達が国民のために本気で対策を練っていると思えない。こういうときにNHKがまた信頼できないのだから、なんという不幸か。自分で自分のことを考えるほかないのだ。どこまで有効な行動が取れるかわからないが、他に方法はないのだ。
 コロナウイルス騒ぎをよそに、外は春真っ盛りで、浅川土手は草が勢いよく伸び、桜は満開だ。その対照が不思議な「夢か現か」という感覚をもたらす。
(宮)
   
 
『新型ウィルス』  初めにこのウィルスが出始めたときにここまでのことになると誰が想像しただろうか。各国がそれぞれのやり方でこの危機的状況を少しでもおさえるために対策を講じている。日本は随分と立ち遅れているのではないだろうか。
 少し前から店からマスクがなくなり、トイレットペーパーがなくなり、それぞれの状況に応じて何かが品薄になっていく事態が起ると考えられる。病気も怖いけれど、こういう状況になって余裕を失う人間もまた怖い。わたしとて、ちょっと前のトイレットペーパーの時には本当に困った。なぜなら家にある在庫が2ロールきりしかなかったからだ。普段余分をストックする習慣がなく、近いうちに買おう、週末に気に入っているメーカーのものを少し離れたお店に買いに行こうと思っているうちにそれは起こってしまった。どこへいっても、トイレットペーパーの棚という棚はからっぽな日が何日も続く。普段は月に1度か1ヶ月半に1度買うものだが、どんなペースで減り2ロールがどれだけもつのか真面目に考えたことはなかった。
 家族(といっても夫と二人)会議となる。この2ロールで、トイレットペーパーを買える日までどう乗り切るか。私「家で〇〇〇をなるべくしない。お腹をこわさない、無駄に使わない」の3つが大事だと話をしたあと、なんと私のお腹が痛くなった。めったにお腹を壊さない私であるが、なんとそのトイレットペーパーのプレッシャーに押しつぶされたらしい…なんとも情けなく、マンガの様で笑えるけど笑えない話だ。幸い2回ほどトイレに通い事なきを得た。冷静に対応しようと言った私の方が心中あせっていたのだろう。トホホである。
 その後、なくなってしまった時の保険のために会社から2ロールを借り、それに手を出す前に4ロール入りを入手。その後無事に12ロール入りを朝のスーパーで見つけて無事購入することができた。その間2週間以上2ロールで足りたことになる。覚えておこう。
 マスクや生理用品、オシメ、キッチンペーパー、ティッシュペーパーなどはいざとなれば布で代用できるが、トイレットペーパーだけは、水洗トイレ文化にいる私たちにとって必需品になっている。そしてそれに代替となる代物をなかなか思いつけない。
 市場在庫は充分にあるといわれていたトイレットペーパーだったので一週間もすれば元に戻ると甘く見ていたが思いのほか未だにその影響が残っているという恐ろしさよ…。安全に過ごしつつどうにか、これから最終的にこのウィルスが収束するまで、どんな時でもなるべく心穏やかに過ごしたいものである。
 戦争やオイルショックを経験した人は、やはり物資、食糧がなくて困った経験をしているため買い置きや買いだめをしている人が多いと聞く。私なぞはそういう経験に乏しい分うかつになりがちだ。このウィルスの蔓延が収束したら、私も必要以上買いだめしようとは思わないが、ちょっとした予備は準備しておこうと思ったのであった。
(やぎ)
   
2020年3月13日
『新型コロナウイルス』  日本どころか世界中が新型コロナウイルスで大騒ぎだし、振り回されている。株の動きは歴史で恐慌と言われている動きに重なって、この先世界がどのような動き、変貌を見せるのか予測困難である。世界中にまたがって経済活動にブレーキがかかっている。オリンピック延期論がニュースになった。経済活動や、日本の世界のと大きなことを措いても、日常的に変化にいろいろ気づく。毎日乗っているバスは明らかに乗客が減っている。ほぼ同じ時間に乗り合わせていた老人たちが減少した。トイレットペーパーの買いだめ、買い占め行動は、必要ないとずいぶんいわれているがまだ続いているようだ。ドラッグストアのトイレットペーパー売り場は長い間空っぽになっていたが、雨の降った日に見たら商品が戻っていた。ところがその翌日見たときにはまた空っぽだ。人が毎日ニュースを見ていて、予測できない変化を警戒する心理が勝っているのではなかろうか。(宮)
   
2020年3月6日
『ウイーンの音楽』  新型コロナウイルスの問題で世間は物情騒然といったありさまだが、先日の「音楽の泉」はウイーンの音楽をと言って、シュトラウスらのワルツやポルカを放送した。こういうテーマのときには皆川達夫さんは思い切りご自身の好み、評価に従って番組を構成する。何十年前の演奏家だろうと関係ない。ベートーヴェンの「第九」のときバイロイトのフルトヴェングラーの演奏を使ったように、今回はクレメンス・クラウス指揮のウイーン・フィルだ。「ウイーンの森の物語」や「ピチカートポルカ」「春の声」などを聴いていると、ワンパターンの連想で、高校時代に図書委員をしていて、昼休みのレコードコンサートの準備で大判の模造紙に曲名を書いていたときのことを思い出す。とくにウインナワルツの曲名を書いていたのが忘れられないのだ。そしてLPレコードにそっと針を下ろしたときの感触も。60年前のことだ。(宮)
   
 
『開花宣言』  いつもゴールデンウィークにさくらんぼ摘みに行かせてくれる友人宅があるのだが、今年は、いつもより暖かく、その家のお母さんが先日こんなことを云っていたと友人から聞いた。「さくらんぼの木に花が五厘咲いたので開花宣言をさせていただきます」と。東京の桜の開花宣言を真似たのだろうがとてもかわいらしい、そしてユーモアのある宣言に思わず笑ってしまった。その後、翌週には八分咲きくらい一気に開花したようだが、宣言を聞いた花たちがきっと、「そうか咲いていいのか」といいながら安心して咲いたに違いないとわたしは秘かに確信している。
 去年の収穫時にはおいしそうな実に限ってすでに鳥についばまれていたのを思い出す。これは…友人母にしかと見張ってもらっておかねばならない。友人に「お母さんには鳥に実を食べられないように見張っておいてと言っておいてね」と伝えた。果して…人間と鳥のどちらがより美味しい実にありつけるだろうか。どう考えても空から、枝の梢から、つぶさに実の様子をチェックできる鳥の方が有利だろうなあとは思うのだが。ここ何年か恒例行事となりつつある東京でのさくらんぼ狩りが今から楽しみでしかたない。
(やぎ)
   
2020年2月28日
『コロナウイルスと安倍内閣』  コロナウイルスがじりじり感染者を増やしているが、この問題にも安倍内閣の対応が批判の対象になっている。問題の広がり方がとてつもなく大きい、大部分の日本人が関係せざるを得ないので批判も半端ではない。今後の展開によっては、致命的な不評を買って、安倍内閣退陣に行き着く可能性が大きそうだ。桜を見る会をめぐる問題では、法律の専門家や政治学者が、将棋で言えば完全に詰んでいると言われたけれど、退陣の動きにならなかったが、コロナウイルス問題は、一気に安倍退陣の動きに移っていくのではないか。このところの安倍批判は従来とは別次元の、タガが外れたかのようなに激しい批判、軽侮のの嵐だ。これから自民党、公明党からどんな動きが出てくるのか、注目している。(宮)
   
 
『3分で』  先日、用事のため、母校に行った。ついでに母校のすぐ近所に住む友人に、夏ごろから預かりっぱなしだった荷物を届けに行くことに。その日はいるのだろうか?前日にメールを入れる。朝になって連絡がきた。「〇〇(娘)は学校に行ったよ。私は保護者会があるけど9時なら大丈夫なので寄ってください」とのこと。用事の前に寄るだけだけど会えるのは嬉しい。一緒に出かける予定だった他の2人に彼女の家に寄る承諾を貰う。彼女たちもその友人に会いたいねと先日言っていたのだ。駅につくとメールがきた。「お茶でも飲んでいかない?」嬉しい申し入れだが時間を考えると無理そう。「あまり余裕がないから残念だけど」と送る。学校へ向う道でさらにメールが届く。「3分で飲めるように用意しておきます」とのメッセージが!えええええっ。さっきの「残念だけど」と送ったら普通は「わかりました」と来そうなものだ。「こんなメールが来た!」ほかのメンバーに見せるとみんなで大笑い。「マラソンの給水所みたいだね~」とか「熱いのはちょっと…わたしが猫舌だって知っているかな~」などと更にもりあがった。果して到着してインターホンを押すと階段を降りる音がして玄関の扉が開いた。「わあ、はやくはやく、2階に上がって!すぐお茶を入れるからね!いそいでいそいで!」と言う。3人で階段を上がると居間にクッキーとチョコレートを並べたお皿が準備されていた。素早く目の前に紅茶のカップが置かれた。チョコレートはゴディバ。3分間でこんなおもてなしを受けるとは…びっくり仰天だった。「普通はさ…こんなのだれも思いつかない」と友人に言うと、悪びれず嬉しそうに笑っている。3分ではさすがに飲めず8分くらいいただろうか?その後は大急ぎで目的の場所に滑り込んだが、なんとも素敵なおもてなしであった。えーとか言いつつチョコレートもクッキーも朝っぱらから3人ともしっかり食べたなぁ。(やぎ)
   
2020年2月21日
『気にかかること』  仕事のことを別にして今一番の関心事は、安倍内閣が何時退陣する状況が出てくるかということだ。「桜を見る会」の問題が出てきたとき、安倍首相はこの問題からは逃げ切れないだろうとわたしは思ったのだ。
 問題の性格から違法行為である証拠が次々出てきて、逃げることは不可能だろうと。実際普通の感覚で言えば到底逃れられない証拠の数々が出てきている。多くの証拠に加えて、戦後社会に対する信頼もある。現に安倍首相に対する批判の声は決して少なくないし、繰り返し批判の論陣を張っている人々がいる。しかし……。
 現時点ではまだ逃げ続けている。これには理由があって、官僚組織が安倍首相の発言に合わせて辻褄の合わない答弁行動を取り続けていること(奴隷状態)、違法行為を摘発するべき検察機関が同様に安倍首相をひたすら忖度した行動を取り続けていること、与党からの公然たる批判、反乱が起きないこと。そして安倍首相をよしとする支持者も決してすくなくないことである。
 長期政権は、戦後社会システムを根底から破壊しつつあるが、このような状態に対する根本的な反動がどこかに時点で官僚組織、検察、与党政治家から起こるだろうというのが、わたしの予測で、それは戦後社会に対する信頼から出てくる。
 依然として信頼を持ち続けて、事態が今後どのように推移していくのか、連日の国会の論戦、報道機関、インターネットの動向を注視している。
(宮)
   
 
『日本の行く先は?』 生きていれば色んなことがある。日本も然り。いろんな良い事、悪い事もふりかかる。いいことはそんなに問題は起こらないけれど悪い事がおこったとき、その人、そしてその国の真価が問われるのではないだろうか。何かに巻き込まれたときほど、人は素の自分になる。こうありたい自分はいるが、その場に立ったときそういう自分と乖離してしまうこともある。ああ、何もないときの想像ではこうしたいと思っていたのにこんな判断をしてしまったと驚く。自分さえも見えない自分が出て来たりする。では、もしも人に何かを疑われるようなことが起った時には、どうしたらいいだろうか?悪い事をしていないのなら丸裸になっちゃえばいいと思う(本当の裸ではなく必要に応じた資料を出すということ)。丸裸になれないのはやましいからだろう。今の政治はそんなことばかり。今や日本は民主主義国でなくなってきているように思う。正しいと思ったことを素直に言えば何かに脅かされるなんてあってはいけない。個人の責務に避難を浴びせる時間に本来話し合うべきことがあるだろうに。何か起こるたびに不安が増す。まずは何が起こっているのかを自分で見きわめて、考え決断できるようにならなければ心までもってかれてしまうと危惧するばかりだ。(やぎ)
   
2020年2月14日
『オリンピック』  コロナウイルスの流行で、オリンピックが開催できるのかわからなくなってきたが、社員のひとりが1964年の「東京オリンピック」の映画を見たそうで、マラソンコースになっていた甲州街道の変貌にびっくりしたと言っていた。56年前の街を見れば、その変化に驚くのはよく分かる。当時、細い農道だった道が環状7号線になり、都心には高速道路が走って日本橋を覆い、新幹線まで間に合わせた。新しもの好きの日本らしく、工事を次々行って景色を一変させたのだ。経済成長の勢いを感じさせる変化だった。2020年のオリンピックではそういう大きな景観の変化はないが、なんか落ち着かない景色を作り出していると感じる。規模が大きくなって周囲を圧迫するような新国立競技場はその実例のひとつだ。落ち着かないといえば渋谷の変貌もものすごい。新たに高層ビルが何本もつくられ東横線、地下鉄の駅がまったく姿を変えてしまった。この落ち着かなさが、オリンピックをめぐるいろいろな問題(マラソンの札幌移転、東京湾の汚水)の浮上と絡んで、こんどのオリンピックの特徴だとおもっている。しかし開催できるであろうか?(宮)
   
2020年2月7日
『どちらがいいのか?』  大統領制と議院内閣制のことである。アメリカでは今年は大統領選挙の年で、ちょうどアイオワ州の党員集会の結果がニュースになっている。いろんな候補者が出てきて半年ほどかけて候補者を決めていくのをみると、日本の現状を考えて、大統領制も悪くない制度だと感じる。しかし3年ほど前の前回選挙では、トランプが共和党候補になり、本選挙でも勝ってしまった。今回も共和党はトランプを候補者にするようだし、ひとたび大統領になってしまうと党内の批判はなかなか力をもつことができないらしい。どこがいい制度なのかという批判がでてくるわけだ。
 日本では安倍内閣が7年余の長期政権となっていて、これまた党内の批判はなかなか表に出てこないうえに、現職の強みがあり、小選挙区制とあいまって政治責任を取ってとうぜん辞職するべき行動が、どんな批判をも物ともせず野放し状態である。安倍内閣は政治の世界で責任という言葉を死語にしてしまった。
 無責任極まる言動とや政策をコントロールするべきなのはまず第一に政党を含めた職業政治家たちであろうが、日米ともに、ひとりひとりの政治家は目前の自身の利害(端的には議員や政府の要職のポストを維持すること)に汲々としている。職業政治家がまともに働いていないときにこれを叱咤勉励するのは有権者の仕事だが、今日は一段とその働きが鈍くなっている。餓死者が出るような貧困状態であれば直接行動が現れるだろうが、そのような状況ではないので(実は極端な貧困が少数であるために)、社会全体としては政治に対する関心が低いのである。日米ともに重要な国政選挙で、投票率が50%ぐらいしかないし、日本では地方選挙の投票率が40%、30%が普通になっている。
 このような政治的無関心の蔓延するなかで今や民主主義の政治制度は存続することが可能なのかという重大な疑問まで出てくる。大統領制か、議院内閣制かという問題以前の制度的機能不全が顕在化してしまっているのが現在の状況らしい。
(宮)
   
2020年1月31日
『丸山真男とオペラ』  どこで読んだのか思い出せないが、丸山真男がフルトヴェングラー指揮のベートヴェンの交響曲第7番を勧めていたことを鮮明に覚えている。しかし中野雄『丸山真男 音楽の対話』(文春新書)によると、丸山はオペラがたいへん好きだたらしい。同書に引用されている丸山の「金龍館からバイロイトまで」を読むと、確かに若年の頃からオペラに親しんでいた。最初の出会いは金龍館の「カルメン」だったが、これはビゼーの歌劇カルメンのパロディだったと言っている。そして「私はカルメン全幕(?)をはじめにこうしたパロディで見てしまったために、戦後に日本やヨーロッパで一流歌手によるカルメンを鑑賞しても、エノケンの演ずるドン・ホセのイメージがふとよみがえって来て、せっかくの悲劇の舞台とダブってしまい、閉口したものである。」と書いている。丸山は音楽好きというだけでなくで自分で歌うのも好きだったらしいから、オペラに引き寄せられるのはよくわかる。ところが戦前ただ一度観たオペラ上演は戦時中の「フィデリオ」(藤原歌劇団)だそうだが、この実演鑑賞が自分にとって決定的なオペラのイメージダウンになったというのも面白い。筋書きが修身の教科書に出てくるような夫婦愛の美談である上に拙劣な演技ののために、ほとんど見るに堪えないものだったというわけである。
 こんな調子で「金龍館からバイロイトまで」は丸山のオペラ談義、音楽談義を展開していて、バイロイト詣でに及ぶ面白い読み物である。
(宮)
 
『ヤンキーぽい歩き方とは?  外を歩くとき、人と歩くことの方が少なく、殆んどの場合一人で歩く。すると全然知らない人たちのたわいもない(?)、または知らなくてもよい情報が時折耳に入ってきて楽しいものだ。
 昨日のことである。夜道を歩いていたら若い男の子(18~20代前半くらい?)たちが数人で団子状態で歩きながらしゃべっている。「おれさあ、ヤンキーぽく歩いてないよな」とAが言う。その友人たちもなにか言っていたと思うのだが、私はそのヤンキーぽい歩き方という言葉で頭がいっぱいになり、どんな歩き方だろうか?ヤンキーっぽい歩き方って?と想像してああでもないこうでもないとひとしきり考えた。
 そもそも最近ヤンキーっぽい人すら見なくなっている。ヤンキーなんて存在するのだろうか?と疑問がわいた。もしかしたらその子が言うヤンキーと私の思うヤンキーすら違うかもしれず、ということはヤンキーっぽい歩き方も彼の想像する歩き方と私が思い浮かぶ昔のヤンキーのそれとは違っているのかもしれない。言葉はどんどん変化するし、同じ言葉の中身すら変化していることもある。だけど今のヤンキーの歩き方を私は見たくて仕方がないのだった。いつか見られるといいな。現代のヤンキー歩きを。
(やぎ)
   
2020年1月24日
『通史』  「大系日本の歴史」15巻の藤原彰著『世界の中の日本』を読んだ。同じ著者の『中国戦線従軍記』(岩波現代文庫)が面白かったので、図書館にあった『世界の中の日本』を引き続いて読んだ。第2次世界大戦の終わった1945年から、昭和天皇がなくなるまでの約45年間の通史である。通読して、分っていたつもりの出来事、事件が時間の流れの中で、世界の動きと関連させられながら、位置づけられ説明されていて、とても面白かった。
 GHQの強力な指導に従って制定された日本国憲法だが、朝鮮戦争の勃発により、制定から3年弱の時間しかたっていないのに真っ向から矛盾する警察予備隊という軍隊を作らざるを得なくなったことなど、アメリカの矛盾した政策とそれに随順する占領下日本の姿が的確に描かれている。
 政治の動きは歴代首相のプロフィールとともに解説されていて、内閣の性格がよくわかる。戦前の政治家が復活し戦前回帰の強い願望を持って動き出すが、GHQに反発する力は弱い。むしろマッカーサーやGHQに巧みに取り入って面従腹背の行動を取る。
 通史の中で見るとサンフランシスコ講和会議で中国、朝鮮、ソ連を除外したことの問題性もよくわかる。日本は、戦争でもっとも迷惑をかけた国を除外した講和条約を締結したのだから、後年そのつけが回ってくるのも当然だろう
 通史を読むことの有用性を改めて知らされた本だ。
(宮)
   
2020年1月17日
『涙もろい』 この3月で小学校を卒業する子どものクラスでは、音楽の時間に卒業式(か、お別れの会)で歌う歌を練習している。お友だちの一人が、その歌を歌い始めると感情移入しすぎて、途中でおいおい泣いてしまうそう。どんなに堪えても必ず泣いてしまう。それどころか、音楽の時間以外に、この「どうしても泣いてしまうエピソード」を話しているだけでも、泣いてしまうのだという。その話のあと、うちの子が「幼稚園卒園の時に、クラスのママが作ってくれた思い出DVDにBGMで使われていたSEKAI NO OWARIの「RPG」を聞くと、小学校2年生くらいまでは思い出して号泣しちゃってた」と言い、今でも聴くと「うるっ」としちゃうそうだ。
音楽ってそういうものだよね~と、ママもそういう曲があるよ~と話をしながら思う、母はそのお友だちのエピソードを聞いただけで泣けるし、「RPG」は今だに泣く。私は、とっても涙もろい。そして今、小学校の卒業式、私はどんだけ泣くんだろうか?と想像しただけで、「うるっ」としてしまった。卒業式、大きなタオルを持参しなくては……。
(みなりん)
2020年1月10日
『戦争を回避』  トランプ大統領の愚かな指示でアメリカ軍がイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害したために、いよいよイランアメリカ戦争が始まるのかと世界中が固唾をのむ中、イランがまず米軍基地に対しての攻撃を行った。これに対してアメリカが更に反撃することが危惧されていたわけだが、ひとまず武力による反撃はせず、経済制裁することが明らかになった。攻撃を受けたとき、イランもアメリカも激しい言葉で相手を威嚇し、厳しい反撃を声高に誓っていた。しかし今回の危機を招いたトランプ大統領は、イランの反撃のあと、戦争回避に舵を切ったようだ。声明発表のとき周囲に政府・軍の要人を背後に立たせて、自身の思いつきの方針でなく、慎重に検討した政府の方針であることを示していた。まったく人騒がせな男だ。こんな人物がアメリカ大統領であり、次期大統領選でも再選される可能性があるのだから恐ろしい。とんでもない人物が首相を務めているのは日本も同様で、今回の危機に際して安倍首相は海上自衛隊の中東派遣を再考すると発言しない。既定方針通り派遣するという。こんな政府の方針に対して自衛隊の現場から不安の声が上がっているると報じられた。偶発的な出来事によって戦争に巻き込まれるかもしれないのに、的確な状況判断と行動方針を国民に全く説明しない、説明しようとしない現在の日本政府の対応はじつに恐ろしい。(宮)

『道徳教育』  明けましておめでとうございます。
 新しい年が始まった。2020年という年は日本にとってどんな年になるだろうか。何も問題のない社会などないけれど、このところの世の中を見ていると、とんでもない方向へ向っていくのではないかと不安の方が大きい。真面目にコツコツ働いてきた人たちが報われない世の中なんてあってはいけない、そう思う。
 近年いわれる道徳教育。私の頃の道徳の授業といえば「口笛吹いて~♪空き地へい~った 知らない子がやってきて、遊ばないかと笑ってい~いった♪」という歌詞がメロディーと共に流れてきて始まるNHK教育番組のテレビドラマを見ていた記憶しかない。本来、普通に人間関係を育んでいれば自然と培われるものでもある道徳。挨拶すること、嘘をつかないこと、間違ったことをしたときには謝ること、お礼を言うこと、盗まないこと、人がいやがることをしないこと等々。子ども達には大人が見本だ。よく見ていて真似をする。間違ったことをした時にはしかることも必要だし、子ども同士の中でもいろんなことで揉まれては学び成長していく。
 考えるきっかけはいつでもどこにでもころがっているし、道徳の教科に点数をつけるなんてナンセンスもいいところだ。道徳教育が一番必要なのは大人の方かもしれない。子どもにあれはだめこれはだめだといいながら、一番嘘をついたり、自分の利権ばかりを考え、ずるをしたり、本心とは違う対応をし、陰口を叩くのは大人のほうなのだから。
 特に現在の政治家たちには道徳教育云々言われたくない。基本の道徳ができていない人に道徳云々言われること自体、ちゃんちゃらおかしいではないか。教育が必要なのは、大人自身なのだ。まず政治家たちは国民に道徳の成績表をつけてもらったらいいだろう。私だって大人になった今だってちゃんとできていない部分があるかもしれない。だから考える。どうすればいいか。自分で。そして家族、友人、同僚、また出会った人たちの様々な意見を聞きながら又考える。今はとにかくスピードが問われる時代だけれど、本当にそんなに急ぐ必要があるのだろうか。深呼吸して考える時間、季節を感じたり、笑い合える時間をもつことのほうが道徳を学び、成績をつけるよりも大切なのではないだろうか。子ども達は年々忙しくなっている。ただただ学校へ行き、放課後遊び、夏休みも暇をもてあまし、小さな冒険をする…私たちは本当の豊かさとはなにか今一度考えるときに来ているのではないだろうか。
(やぎ)
   

『2020年』 2020年が始まった。
2019年の年末は、子どもがインフルエンザにかかり、弱ってるところに胃腸炎をもらい、病院で点滴をうけたりと、ハードな年の暮れだった。
大晦日の気忙しさや、ちょっとしたご馳走と年越しそば、正月のお節やお餅等々は、元気もりもり、食欲もりもりであればこそ。我が家は、家族で消化のよいものを食べながら、のんびり過ごした。それでも、家族(+猫2匹)で、あたたかい部屋で新しい年を迎えられるだけでも、本当に幸せだと思う。
年が明けてから、世界平和へ背を向けるようなニュースが続く。世界中の誰もが、戦争や争いのない平和な世の中を望んでいると私はずっと思っているが、時々ふと思う。まったくもって信じがたいが、もしかしたらそうじゃない人がいるのではないか?と。
子どもが生きる未来が希望に満ち溢れた戦争のない平和な日々であるように、自分にできることは何だろうかと、ずっと考えている。できることは、小さい事かもしれないが、考えることを止めず、行動していきたいと思っている。
(みなりん)