萩原さん、藤田さんの未発表原稿の文庫による公開という朝日新聞の記事につられて、さっそく手に入れ、読んだ。
学生時代に藤田さんのゼミで「痩我慢の説」による勝海舟批判と、それに対する勝海舟の手紙の一節「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」を聞いていらい、幕末維新の二人の偉大な人物のことが頭に刻み付けられた。学生時代の藤田さんの話は余談のなかで講談調だったが、みすずセミナーでは、「痩我慢の説」がテーマである。いったい何が話されたのかと興味津々で読み始めた。
本書(朝日文庫)は、「丁丑公論」「痩我慢の説」の原文に勝海舟と榎本武揚の手紙、徳富蘇峰の「痩我慢の説を読む」を付録として収めているが、本文は37年前にみすずセミナーでおこなわれた萩原、藤田両氏の講義テープを起こしたものである。そして政治思想研究者宮村治雄氏の解説。萩原さん、藤田さんによると福沢諭吉は随分過激な思想の持ち主で、いまの世の中にもそのままつうじる、日本社会の問題性を指摘している。二人の講義も(言葉は穏やかであるが)それに劣らず過激で、読み出すとやめられない。本書によって福沢諭吉の偉大さと、問題性を改めて印象づけられる。福沢は、評価が大きく揺れ動く思想家である。解説によれば、たとえば三宅雪嶺は「痩我慢の説」を紹介して「よし福沢全集は焚く可きも、この一文は不朽なり」と絶賛している。「痩我慢の説」を絶賛しているが、全集は焚く可しというのだ。
さて、ふたつの文章だが「丁丑公論」は、西南戦争のときの政府と西郷隆盛を批評したもので、敢えて言えば西郷に好意的に論じている。また「痩我慢の説」は幕臣である勝海舟と榎本武揚の幕末維新当時の行動を真っ向から批判した文章である。二つは明治34年に一冊にして刊行され、いらい多くの議論をよんだ。
勝海舟に対する批判はまず、幕府の責任者として、薩長軍と一戦も交えずに降伏したことである。しかし、これについては、幕府軍と薩長軍が戦う内乱状態は、外国の介入を招いて日本を植民地にされる危険をおかすものであり、これをさけた勝海舟の大局的判断と勇気を評価する議論が早くからあった。徳富蘇峰の文章はこれにあたる。しかし、当時の対外政治状況を資料的に押さえた上で、外国介入の危険性は無かったと萩原さんはのべているし、西郷は当時独自の情報源からの判断としておなじ結論に達していたというのである。福沢は、一戦も交えずの降伏が日本人の精神におおきな負の遺産を残した、一朝事あるとき、日本人が身を挺して戦うことができないではないかと言う。福沢の評価の難しさがここにもある。
勝海舟批判の二つ目は幕府の滅亡を指揮した勝が明治政府の顕官になったことである。ひとの出処進退の問題として、福沢は厳しく批判している。
福沢の批判に対する勝の返書は、冒頭に触れたように「行蔵は我に存す・・・・」というもので、二人の偉大な人物の、幕末から明治三十数年にまたがる行動とその評価、批判は、いまもわれわれの興味を強く刺激してやむところがない。(文:宮) |