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にせもの美術史
 メトロポリタン美術館長と贋作者たちの頭脳戦

トマス・ホーヴィング/著
雨沢泰/訳
朝日新聞社
著者のトマス・ホーヴィングはニューヨークのメトロポリタン美術館で十年間館長をつとめた美術品真贋の歴史の当事者の一人である。本書ではローマ時代から現代にいたる真贋のいたちごっこの歴史と、贋作がどのようにあばかれたてきたかを、著者の実体験をまじえユーモアたっぷりに語っている。
ほとんどの人がそうだと思うが、わたしは本書を読むまで美術館で贋作を意識したことなどなかった。ましてやそんなに多く混ざっている可能性が高いとは想像もつかなかった。とくに二十世紀は贋作がもっとも花盛りというのだから、これから美術館に出かける度に作品の前でう〜むと悩むことになりそうだ。
しかし、専門家をだまし科学分析をパスする贋作を、素人が見破ることができるだろうか。著者が出会った贋作の名人フランク・X・ケリーによると「贋作はおいしそう──贋作はオリジナルより魅力的で、エネルギーを発散しており、いくらか時代が本物より古そうに見える」のだそうだ。そして我々がみる場合、画家の知名度や美術館という装置によって、別の次元でも「おいしそう」に見えてしまう。もちろん美術館に否はない。わたしたちがそういった装置に呑まれてしまうのは、何も美術に限ったことではないのだから。
その一方で、神のごとく目で贋作をみぬく人間もいる。十四章に登場する「名探偵ソンネンバーグ」だ。絵画修復の名門ドエルネル研究所所長時代、彼のもとにある画商からオットー・ミュラーのものと称される絵がもちこまれた。彼は見た瞬間でそれを贋作と見ぬいたが、徹底的な科学分析をパスした絵を、「直感」だけでは否定できない。そこで同じ画家の折り紙つきの真作何枚かと問題の絵とを、日常生活の中でひたすら見くらべることによって、表面の光沢の微妙な違いを発見した。彼によると「均等にあたる光のもとであれば、人間の眼は、カメラで検出できない、どこかおかしな、バランスを欠いたものを捕らえる驚異的な能力をもっている」のだそうだ。
わたしは本書の中でこのエピソードがいちばん好きだ。しかし直感を安易に信じることは危険である。なぜそう感じたのかを自分自身に問い、自分の直感をつねに研磨する作業をおこたれば、本来精密機械よりもすぐれた性能をもつ人間の眼であっても、あっという間に「ふし穴」になるだろう。美術品贋作の歴史は、ずさんな偽物が横行する欲にまみれた歴史である一方、人間の知性と感性に挑戦するスリリングな歴史でもある。
最後に、著者のホーヴィングによると、偽物をつかまされないために必要なのは「ニード(需要)」「スピード(速さ)」「グリード(強欲)」にふりまわされないことだそうだ。この三つの欲の前では素人も専門家もないということは歴史が証明している。美術品贋作の歴史は、実に人間くさい歴史でもあるのだ。(文:京)