著者に聞く−「漱石の夏やすみ 房総紀行『木屑録』
高島俊男さん

(著者)

著者に聞く−「漱石の夏やすみ 房総紀行『木屑録』」
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高島俊男さん
文豪夏目漱石は、第一高等中学校在学中の1889年(明治22年)8月、友人たちと房総半島を一ヶ月かけて旅行し、帰京後、そのもようを漢文でつづった「木屑録(ぼくせつろく)」を級友の正岡子規に送った。

中国文学者の高島俊男さんは、このほど書いた「漱石の夏やすみ」で、漢文故にあまり読まれることがなかったこの作品の味わいを、自由な訳文によって紹介するとともに、漱石と子規の交友関係や日本人と漢文の関わりを解説している。

「我輩ガキの時分より、唐宋二朝の傑作名篇、よみならったる数千言、文章つくるをもっともこのんだ。精魂かたむけねりにねり、十日もかけたる苦心の作あり、時にまた、心にうかびし名文句、そのままほれぼれ瀟洒(しょうしゃ)のできばえ、むかしの大家もおそるるにたりんや、お茶の子さいさいあさめしまへ、これはいっちょう文章で身を立てるべしと心にきめた」
これが、高島さんによる「木屑録」冒頭部分の訳。全体が、こうした軽快な調子で貫かれている。
当時、漱石も子規も数えで23歳。この旅行先に子規から届いた手紙では、子規は自分のことをふざけて「妾(あたし)」と呼び、漱石のことを「郎君(おまえさん)」と呼んでいる。旅行前、何かと指導癖がある子規から文集を見せられ、刺激を受けた漱石が、子規を楽しませながら、「漢文の腕前なら自分の方が上だぞ、と示そうとした」のが、「木屑録」の基本的性格だ。

ところが、従来の漢文訓読調の翻訳では、そうした原文の諧謔(かいぎゃく)味が一切失われ、何か荘重な文章のようになってしまう。「それはそれで面白いことだが、困ったことでもあると考えた」のが、本書執筆の動機になった。

高島さんによると、漱石と子規だけでなく、明治の知識青年たちは、頻繁にこうした諧謔味のある手紙をやりとりしたという。「相手をぷっと吹き出させてやろうと、文章を練る。文を諧謔的に語ることはまた、高度な自己反省につながる」と高島さん。「木屑録」に見られるこうした精神的土壌が、知的でユーモラスな「吾輩は猫である」に結実したと論じる。
同時に高島さんは、漱石の漢文については「さすが漱石だけあって、当時としてはなかなかのも」と言いながら、多々不正確な点を指摘。「木屑録」中に含まれる漢詩も、「やや大げさでおやじ臭い」と辛口で評する。

とういうのも、江戸時代に確立された漢文訓読法について、高島さんは「中国との交流が途絶え、本来の発音が分からなくなったために開発された“原文暗記のための単なる記憶装置”。明治の開国によって再び存在理由がなくなった」と考えているため。

「日本人は少し漢文をありがたがり過ぎるのではないか。漢文を学ぶよりも、半年でいいから現代中国語講座に通い、そこからさかのぼるのが自然な道筋。中国文学者は皆そう考えている」と、むしろ“漢文プレッシャー”からの脱却を説く。              (時事通信配信記事)

「漱石の夏やすみ 房総紀行『木屑録』」書評掲載
3/27 朝日新聞 ウオッチ文芸(評:向井敏氏)
3/27 北海道新聞 書評欄(評:石原千秋氏)
3/25 産経新聞 書評欄(評:高橋康雄氏)
3/19 毎日新聞 書評欄(評:丸谷才一氏)

日本海新聞(3/14)
北國新聞(3/12)
静岡新聞(3/12)
鹿児島新報(3/1)
河北新報(2/27)
四国新聞(3/14)
熊本日日新聞(3/12)
中国新聞(3/12)
陸奥新報(2/28)
京都新聞(2/27)
埼玉新聞(3/12)
北日本新聞(3/12)
上毛新聞(3/8)
琉球新報(2/27)
デーリー東北(2/25) 
他多数