【一般】
濱口雄幸伝 
今井清一/著
四六判 上製 396頁 ISBN 978-4-86085-103-3
(本体2000円+税) (2013.12)

信念を貫き政策を実行した勇気ある政治家の最期
与野党党首が交互に首相をつとめた昭和初期の政党政治時代、断乎として自己の責任を双肩に担って立つ濱口首相は、真摯堅実な人格にたいする国民の信望をかちえて、金解禁を実行し、海軍軍縮条約の締結にこぎつけた。しかし、濱口はロンドン海軍軍縮条約に伴う補充計画を仕上げた直後に東京駅で拳銃で撃たれた。

 
「葬儀が国民葬の観を呈し、『随感録』が空前の売行きを示したことは、それが政党政治の発展を意味し、そのためにこの代表的な政党政治家である浜口に対して世人の関心が集まったわけではなかった。(中略)世人が浜口を惜しんだのは、むしろ当時の政党政治が凋落し、政党は国民の前に自ら進むべき大道を確信をもって示す勇気に欠け、日本の前途には不安な雲が漂っていたからこそ、浜口のような、断乎として自己の責任を双肩に担って立とうとする真の政党政治家を待望して止まなかったのだといえよう。」(本文349〜350ページ)

■下巻目次
 
第9章 濱口内閣の成立と金解禁
第10章 ロンドン条約問題
第11章 遭難前後

むすびにかえて―政党政治家としての濱口の地位




‡この時代に、もし濱口雄幸がいたら…今だからこそ読んで欲しい『濱口雄幸伝』‡

政治家としての生き様

難問山積で、政党間の激烈な対立・揚げ足取り・難癖のつけあいがとどまることを知らない状況は、当時も今と同じ。その中で濱口雄幸が如何に生き、活動したか? 政治家として直面している問題が深刻であるほど、真価を問われるはずである。当時も今も、存在意味に疑念が持たれるほど混迷を極める政党政治の当事者として濱口は、ときには説得によって、またときには強い意志を貫徹して、政策課題を実行した。ロンドン海軍軍縮条約に伴なう補充計画を仕上げた直後に東京駅で襲撃された。そのとき発したのが「男子の本懐である」という言葉である。

組織人・職業人として、人生をどう歩むか…

 大蔵省時代に上司に直言したため、組織のなかの人間として不遇な一時期を堪え忍んだ。また出世よりは携わった仕事を大切にする生き方を貫いた。
 政治家の人生を踏み出したとき、勅撰議員(貴族院)ではなく、選挙の洗礼をうける衆議院議員の道を選んだ。安易な道をとらず、正面から立ち向かう、真っ正直な生き方をした人である。

‡原稿執筆と『濱口雄幸伝』刊行の経緯‡

始まりは、『丸山真男回顧談』の記述

 『丸山真男回顧談』下(岩波書店)に、「親父は親父で、浜口雄幸の伝記を書くことを委嘱されて、浜口家から相当の金額をもらったのです。親父が老衰してしまったものだから、結局できなくて、ぼくに誰か紹介してくれというので今井清一くんを親父に紹介して、助けてもらった〔幼少時代を丸山邦男、その他は今井が執筆して完成し、丸山が目を通したが、丸山幹治は完成前に亡くなったこともあり、刊行にはいたらなかった。完成稿は浜口雄幸の遺族が所蔵し、そのコピーが、高知市の自由民権記念館に収められている〕。」とあり、この原稿の所在を今井清一氏に確認したところ今井氏が所蔵していることが判明した。そして原稿を通読した結果、濱口雄幸の人間と、政治家としての行動をつぶさに知ることができる、面白くてしかも優れた読み物であることがわかり、数十年ぶりに朔北社より刊行することになったのである。
 その後、今井氏のもとに残っている資料を確認したところ、丸山幹治氏が戦時中の昭和19年に作成した、濱口雄幸伝のための大量の記録が出てきた。丸山幹治氏は丸山真男の父で、著名なジャーナリストであり、『毎日新聞』の「余録」を昭和12年から28年まで執筆していた。現在わかっていることから推測すると、丸山幹治氏が戦中から進めていた濱口雄幸伝のための作業を昭和28年ごろ今井氏が引き継いで、数年がかりで執筆・完成させたものである。
 戦時中の作業からかぞえれば70年近く経過し、原稿完成から数えても50年以上経った今日、今日まさに読まれるべき内容の原稿が刊行されることになった。

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