英語の「Where am I?」と日本語の「ここはどこ」の違い
英語の文章を和訳しているとすぐに気が付くことがある。英語会話文の中の
「I」の多さである。和訳原稿を再度見直すと、やたらと「わたし
は」、「僕は」が多いことに、訳した本人が辟易する。第二稿目は、会話文から出きるかぎりこれを省く作業で始まることがある。日本語にした時、第一人称は特に独白の部分などでほとんど必要ないからだ。
この理由は、和文中での「わたしは」、「ぼくは」の多用は、「我」の強さのが強調されるからだと思ってきた。だが、この本を読んでみて、どうやらそれだけではないらしいことが分かった。
英語では「you」 「he/she」 「they」と「I」は等値の存在として客体化されている。「I am glad.」と 「She is sad.」が客観的事実として同じ位相で語られる。この時、発話者は自分と第三者を同じ地平において上から俯瞰しているようでもある。
これを日本語に訳すとどうなるか。「私は嬉しいです。」はいいとして、「彼女は嬉しいです。」というのは、日本語として不自然に聞こえないか。翻訳者としては、ここはどうしても「彼女は嬉しそうだ。」としたくなるのである。ところが、「嬉しそうだ」としてしまうと、話者にはそう見えたという一つの「解釈」になり客観的な事実ではなくなる。訳者はそれを知りつつ、日本語らしくするために敢えてそうしていると言ってかまわないだろう。森田氏はここに着目し日本語の特徴を見ている。
●「私」中心の視点
外在の事物や他人を話者自らが己の視点でとらえ、自己の心に映る状況として言葉に表し、その「周囲の世界」と「己自身」との関係の構図の上
に対象をとらえて、「自己の心に映る状況として言葉に表そうとする姿勢」が日本語の性格を端的に表しているとしている。そして、「私は」、「私たちは」等と「自己を対象に据えて、その存在を問題としなければ埒があかな
い英語等とは、際立った違いを呈していると思う」としている。
では何故そうなのか。著者は、英語の「Where am I ?」を例にとって説明する。直訳すると「私はどこにいるのか」となるが、この時すでに「私」は話者から離れて客体となっている。英語の発想は、あたかも話者の視点がカメラアイとなって空中に舞い上がり、自分とそれをとりまく外界全部を俯瞰しているかのようである。日本語ではどうか。街で道に迷った時、日本語で「私はどこにいるのでしょうか」とは尋ねない。日本語の自然な発想では「ここはどこ?」となる。この時、発話者自身は外界には存在していない。主観的感情が「どこ?」という言葉となって出てきたとも言える。つまり、日本語では話者の内界にカメラアイが備わっており、自分はその内側にいて画面には決して映らない。「私」は「人」に含まれてなかったのだ。
この日本語の発想は、そのまま文化に反映している。著者は、日本人の発想は、いつも内側から外界がどう見えるかにとどまっていると考える。ここに「内」と「外」という二面性を持つ精神文化が浮き彫りにされてくるのだ。日本人は、日本語をして「内と外の関係を簡略に言葉で組み立てる『機能的な』言語に作り上げてしまった」と森田氏は説いている。
●対人意識の表れ方
この視点は、日本人の他人の目を気にする傾向とも関わりをもつ。「日本語の『人』はほとんどが “己の目でとらえる他人の意味”であり、その結果、対象たる人物(他人)を見る”人の目”がつねにつきまとっているのである。当然にも、「世間」対「己」の関係における「受けの姿勢」、あるいは周囲の人々の目を絶えず気にする受けの視点となって現れてくる。
これを敷衍すると、「人々」は話者から見ると「外の世界の人間ども」という客体的な存在となり、自己と人々との間には心理的な「溝」、「隔たり」が生まれる。己はあくまで傍観的な立場でしかない。そのために電車の中でチカンを目撃しても、「つい見て見ぬふり」をしてしまう。あるいは「触らぬ神に祟なし」となる。これは「自己を社会の一員として客体化していない日本的な心の視点に由来している」と著者は見る。
古代の日本語では、一人称「わ/われ/あ/あれ」はあったが、二人称、三人称の語がなく、指示代名詞で済ませていた。その名残が、「こちら」「そのほう」「あいつ」などで、人を「こ・そ・あ」の指示語で示そうとする。結果として、人をそのほうにある人物という隔ての対象把握を余儀なくさせる。それが、「人と関わりを持つことへの日本的流儀を生み『渡りをつける』にみるような、人への橋渡し的発想を生みだす。すぐコネを気にしたり、談合を常とする日本的社会の流儀もまさに同じ根から生まれた現象と言える」と説く。
●「家」とプライバシー
日本では「家」は「隔てなき結合」を意味する。障子や襖という極めて弱い隔てしかない。一方、家の外側は垣根や塀でがっちりと囲われる。玄関で靴を脱いで「家」に入るのも、「外」との「潔癖なまでの区別」の表れだ。外国ではどうか。一般的に言って、家の中は頑丈なドアと鍵で隔てられた個室が基本である。プライバシーは潔癖なまでに尊重される。その代わり、家全体は外からはまる見えだ。日本的な感覚では、無防備なまでに警戒心がないと言える。
「家」という「隔てなき結合」の中で、「己」は流動する。妻には「僕」、子供には「お父さん」、職場では「わたし」、手紙の中では「小生」というふうに、発話の場面と人間関係によって言葉を使い分ける。つまり「相手を自分がどのように受け止め待遇しているかを先方に知らせる”己の視点”と”受け手の心”が常に表現の底にある」のである。
話者の視点は文字のレベルまで入り込んでいる。税金の例をあげて、「おさめる」にも「納める」と「収める」があり、「納める」は「先方へ入れる」、つまり払う側の視点で、「収める」は徴収する側の視点に立った時に使われる。
●いつも受け身の話者の視点
日本語は単に人間関係の上下によって固定された尊敬謙譲表現を使っているわけではない。折々の意識・心理で融通無碍に流動する「相対敬語」である。それ故に適切な言葉の選択が必要となる。受け身も多用される。そこにどんな意識が潜んでいるのか。森田氏は、「常に他人を気にし、相手との人間関係をまず念頭において行動を定めようとする民族であるのは、おそらく己を取り巻く他者との関係で自己の基点が定まると考える”受け”の視点に起因しているからだ」と言う。「思いやり」、「以心伝心」という日本人が得意とすると信じている相手を慮る行為も、ある意味で相手の心象に対する己の勝手な解釈であり。相手はこう思っているはずだと憶測したり、独断で決め込んでいる。日本人の「気配り」は、言語自体に具わっている機能なのかもしれない。
このように、「自己側中心の視点」というのは、己を押し通す態度ではなく、むしろ「他者や周囲、つまり世の中を、自分とは無関係に進捗してゆく自然の成り行きと見て、己はただそれを受け止めていく極めて消極的な受け手にすぎない。つまり、外の世界を「自然の成り行き」と見守り、己をその流れにゆだねるのである。
その例として、「このたび左記の住所に引っ越すこととなりました。」という他人ごとのような表現だ。「〜となる」を用いて、己の及ばぬ「外の力」で支配されているかのような言い方である。日本人には伝統的に、外の状況、ことの成り行きには楯突かず、黙って身を委せる受動者の心理が身に付いているらしい。
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著者は「まえがき」で、日本人が「国際化時代を生き抜く」ために、「国際的な舞台において今後日本語をどのように舵取りすべきか」を考える資料としてこの本を著したと記している。もう「成り行き」は役にたたないということか。
言葉を「舵取り」するという表現は「積極的」な発想に聞こえて勇ましい。だが、実際には受け身に徹して転覆せぬようにあたふたするだけの姿が見えてきそうだなと、私は危惧しはじめた。いずれにしても、日本語を世界に通用するように「舵取り」する船頭が求められているとすれば、複数の言語を日夜操り、異文化の荒波にもまれ続けている海外在住の私たち日本人が適任かもしれない。 (田中裕介・記)
(カナダ日系コミュニティー月刊新聞「日系の声」2001年5月号掲載)
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