王様の耳はロバの耳 2001.6
〜通り雨の後に残るもの〜
2001年 6月27日
『シェーンベルク没後50年』
石田一志さんが企画したシェーンベルク没後50年を記念した演奏会に出かけた。(6月20日芸術劇場小ホール)12音技法に基づく曲2つと「浄められた夜」。12音音楽と聞いただけで無機質な音楽をついイメージしてしまうが、小ホールで弾かれるピアノや、ピアノ三重奏は、CDで聴くのとはちがった、響きの余韻というものがあり、これはこれで面白い。音楽にちがいないのである。「浄められた夜」では山崎広太、平山素子という2人のダンサーが踊った。神経はついつい舞台で動き回るダンサーに行ってしまいがちだが、ピアノ三重奏版の「浄められた夜」は、とりわけ後半で実に美しい音楽を聴かせてくれた。オーケストラ版などの甘美さが強調される演奏に比べると、ピアノ三重奏版には清楚な美しさを感じた。(宮)

『高尾山』

久々にだだをこねて、夫婦で高尾山へ登りにいった。私はアウトドアをこよなく愛しているのだが、夫はそうではないらしい。最近二人ともなんだかんだと忙しく公私ともに精神的にも少しまいっていたので気晴らしをしにいきたかったのだ。運動らしい運動もあまりしていないので、森林浴及び、運動をかねて出かけることになった。いきなり長距離のきつい山は体に応えるので、高尾あたりは近くてもってこいの場所なのだ。当日は、ばたばたして登り始めたのはお昼になっていた。
最近アトピーがひどい夫は汗をかくとかゆみが増すらしく山を楽しむというよりはイライラしていた。無理矢理誘って悪かったかなあという思いがわいてきた。約小一時間歩いた先が頂上だった。しばし休憩。なんとなく物足りなくはあったが、最後の階段が効いた。程良い汗をかき、山を下ることに。実は私はくだりにめっぽう弱いのだった。歩いてもいいよという夫を後目に実はどうにかケーブルカーかリフトで降りるという頭になっていた。「わたしはどっちでもいいよ」といいながら「そっちの体調にあわせるよ」とやさしい言葉をかけながら実は自分の心配をしていたのだった。山は登りよりも下りがつらいのだ。なんとかリフト乗ったことないから試してみようとリフトで下界へ。思いのほか、そのリフトが楽しかったので救われた。リフトはじつはスキー場だったり、雪がないところでも登りのリフトしか経験がなかった私にとって、下りのリフトは想像よりも少しこわかった。急斜面の下りしか見えないのにリュックで浅くしか座れなかったので落ちるのではないかと最初気が気ではなかった。どうにかリュックを前にまわし、深く座るとなかなかいい感じになった。山の谷間をのんびりリフトで下るのもいいもんだ。距離も想像以上にあり、空中散歩を楽しめた。こうして夫婦で出かけるのも悪くないなあと一人でご満悦のわたしだったりする。帰り道「高尾山も登ったし、今度は、おまえのお兄さんとうちの弟を誘って富士山にでもいくかあ」と夫。高尾の次は富士山。…なんて無謀な人なんだ…と思ったのはきっと私だけではないはずである。
(やぎ)


『バージョンアップ』
先週よりPCの容量がたくさん入るものに替わり、どうせならといろいろなソフトのバージョンアップをしてもらった。何しろ基本的には「マニュアル人間」を豪語しているので使えても機械の中身や基本的設定などはさっぱり分からない。とにかくたくさんソフトが使えるということだけで喜んでいるが、使い慣れていたものから新しい物への変化は私にとって大きな変革(少し大げさだが)だったらしく毎日のようにとまどったり感心したりの連続だ。
どんな電化製品でもそうなのだが、最初はいろいろな機能が付くと興味をそそられて思わず買ってしまったなんてことが多々ある。しかし、いざ使ってみるとそれ程必要がなかったり、デリケートな作りなのかすぐに壊れてしまったりする。結局最終的にはあれもこれもと欲張りすぎるとどこかで歪みができてしまうのではないだろうか。「全てが可能に」という言葉は魅力的だが可能にならないから面白いのであって、最近では逆にマニュアル的な物の方が魅力を感じるようになっている。これも時代の流れなんだろうか?
(リュウ)
2001年 6月19日
『いつのまにか……』
道っぱたでひとりで喋くってる人を見ると、「けっ」と冷たい視線を送ってきたわたしだが、携帯電話を持つようになって、いつのまにか自分も同じようなことをしているのに気づき、ゾッとした。道はもちろん、駅の階段、百貨店、レストラン、場所などまったくわきまえず携帯の振動は伝わってくる。あとで留守電をきけばいいおもうのだが、それじゃあ携帯の意味がないじゃないかと、妙に気弱になったりもする。
新しい道具の誕生は、その道具にあった新しい行動様式の誕生を意味する。それを時代の流れと考えてよしとするか、ふんばってあくまでも逆らうか。判断は人それぞれだが、わたしは、自分がみて「かっこわる」とおもう行動だけはしないようにしよう。……とおもっていたのだが。(京)

『企業情報』

この時期、企業情報をサービスしている会社いくつかから、電話がかかってくる。「おたくのデータに変わりありませんか?」と言って、データを読みあげ、決算内容まで遠回しにきく。「前期と同じぐらいの売り上げですか」などと。とにかくざっと電話で尋ねた結果は我が社の情報として、有料で提供されることになる。
電話ではしゃべれないと言えばしぶしぶ会社まで聞きに来るが、その時もデータのたずね方は、電話によるのと変わらないから、最近は時間節約のためにさしさわりのない部分は電話で答えてしまう。我々が使っている企業情報は、こんな作り方をされているのだが、それでも何もないよりはましという程度には役に立つといえるのだろう。(宮)


『若者の街:原宿』
原宿にあるライブハウスで行われたお笑いのライブに行った。なぜかオールスタンディングだった。ギュウギュウでもなかったが、自由に動くことや座ることができる状態ではなかったので、約3時間立ちっぱなしだった。おかげで、足は痛いわ、腰は痛いわで、もう自分があんまり若くないことを実感した。そして帰り道。竹下通りを駅に向かって歩いていくと、たくさんの若者とすれ違った。着てるモノの色も明るく、化粧も髪型も派手で、出ているオーラはピンクという印象、一言でいうならまさしく「ピチピチ」だった。何気なく見た、ショーウインドウに写った自分は、灰色のオーラを放っていた。一言で言うなら「よれよれ」だった。もう自分がまったく若くないことを実感した。(みなりん)

『ドン・ガバチョ』
日曜日に引越しをした。大半の荷物は運送屋さんに頼むとして、手には何を持っていこうか考えたところ、おお、大事な物があった。ノートパソコン。これまでで一番大きな買い物。これは、預けるわけにはいかん、と思ったのが間違いだった。こいつのために40リットルのザックを引っぱり出し、底に寝袋を入れタオルでまいたパソコンを入れ、ほかに目覚まし時計やら貴重品やらを詰める。さすが、40リットルだけある。そして山用だけに機能は抜群。ぼんぼん入る。がんがん入れた。さすがにひょっこりひょうたん島のドン・ガバチョみたく、やかんや傘まではささなかったが、まるでそんないでたち。なにかしでかすと所帯道具一式担いで逃げ出す点では、同じかもしれないが。(いやべつになにかしでかしたわけではない)そんなわけで、21世紀のドン・ガバチョはノートパソコンを担いで、梅雨の合間のカンカン照りの中、新天地目指してひょうたん島をあとにした。(かわら)

『梅雨バテ』
この頃湿気が多く、気温は高くジメジメとしている。そのせいだけとは言えないが夜の寝付きが悪い。エアコンを「ドライ」の26〜28℃に設定してタイマー「切る」をセットしてから寝る。一度寝てしまえば朝までは起きることはない。しかし、会社では冷・暖房しかないエアコンなので湿気と冷えで体温調節を上手くできなくなってしまう。外に出れば湿った空気で目の前がクラクラしてしまう。暑い夏を前にしてもうすでにグッタリしている。(リュウ)

諸事情のためお休み。

(やぎ)

2001年 6月11日
『冒険』
夫が卒業した大学が創立してから節目の年を迎え、記念行事としてシンポジウムのようなものを行った。テーマは「冒険」。自分が、行けないところにいってやれないような挑戦をする人たちに私は憧れている。当日は夫と二人で、開演20分過ぎに大学へ到着した。4人の冒険家たちが司会の小西さんの質問に答えながら、それぞれに自分のこと、冒険のことを語っていく。
今回のシンポジウムで知っていた名前は野口健さんだけだった。さいきんテレビのコマーシャルでエベレストのゴミ問題などを語っていたのでどんな人なんだろうと興味があった。よくしゃべるおもしろい人というのが、第一印象。すごく若くて勢いがある人だった。どの人もなんだか、余計な物をそぎおとしたすっきりしたたたずまいをしていた。どの人もとてもたのしく自分の行った場所について語る。とにかくみんなよくしゃべるし、話がおもしろい。冒険家というのは地球が好きで、人が大好きな人たちのことなのだと、なんだかひしひしと感じた。
そういう意味では、私のまわりにも山に登ったり、川を下ったり、海へ航海にでるような人はいないまでも、ある意味、毎日冒険している人がいるのだと思う。自分たちが初めてだからといってたじろがない人。人がいかないところに行き、人が知らないものを見る。そして体験するというのはパワーがいる。私もそういう冒険をする人になりたいと思った。日本人はどちらかというと冒険家が少ないのかもしれない。あの人がしているファッションをあの子もこの子もする。この本が売れたと聞けば、同じジャンルの類書を出すというように安心、安定というものを大切にする人種なのかもしれない。その全てが悪いことではないけれど、実際に最後にみんなが戻ってくるのは一番最初にやり始めた人、一番最初に出た本なのだ。はじめの一歩は大切だ。こうやったらどうなるだろう。試しに一歩踏み出してみよう。それが冒険ってもんだろう。そしてやるからにはちょっとやそっとじゃへこたれない精神ももたなくちゃいけないなと、いろんなことを考えた実りあるシンポジウムだった。(無料とは思えない充実ぶりでした)(やぎ)

『何を削る?』

ウニが大大大好きだが、「今まで食べたことがないほどのすんごくおいしいウニを1万円で食べ放題!!」といわれても、「う〜ん…」と悩んで、私はきっと断るだろう。お金の使い方は人それぞれだと思うし、これにお金をかけるのはもったいないと思う事も人それぞれである。私は、食に大金を払う事を「もったいない」と思ってしまう人種らしい。
ある日、財布の中に2000円しかなく、「次の給料日までこれで過ごさねば!!」という時、書店で1600円の本を買ってしまった。見つけた瞬間、「めちゃめちゃ読みたいっ」と思ったが、買う書籍リスト(自作)に載ってる本じゃないし、我慢しなければならないはずなのに、なぜかレジに並んでいた。私はお金がないときに普通なら削るであろう、趣味分野の出資を惜しまないのか…とその日知った。思い返してみれば、ライブを見まくって、お金がなくなり、1週間すいとん(小麦粉+水)を食べたことがあった。あの時はかる〜く栄養失調になりかけて、病院で点滴を打った。高く付いた…。(みなりん)


『回想』
日清紡都市開発の阿部社長からいただいた佐賀純一著「霞ヶ浦風土記」を読んでいる。ボリュームがある本で、なかなか読了しないが、高度成長以前の日本の農漁村の生活が、それは刻明に描かれている。その詳細でイメージ鮮やかな記述に刺激されて、子供の頃の景色を思い出す。
東京郊外の三軒茶屋はいまとは随分ちがっていたと改めて思う。渋谷の方向から中里の旧道に入ってくると、道路の右手に並んでいる店は、酒屋、駄菓子屋、提灯屋、作業衣屋、靴屋、八百屋、クリーニング屋、魚屋、いかけ屋と続く。左手は、古道具屋、トビ職の住宅兼物置き、染物屋、下駄屋、駄菓子屋、炭屋、その先に飲み屋が数軒続く。私は左手のトビ職と染物屋の間にはさまれた家に生活していた。
よく提灯屋の玄関先に入り込んで、提灯屋のおじさんがお祭りのときに軒先につるす提灯に文字を書き込むのを、あきもせずながめていた。
となりの染物屋は洗い張りをしていたが、竹ヒゴを沢山使ってシワにならないように干していたのを思い出す。うちでも母がときどき洗い張りをしていたがこちらは、それ用の板(名前を何と言ったのか思い出せない)に張り付けて干していた。
いま、これらの店で残っているのは一軒もない。酒屋がコンビニに転身して営業してるだけで、あとは別の人が別の商売をしている。三軒茶屋のはずれだからか、店の数は私の子供の頃から比べると、大分減ってしまった。(宮)

『冒険』
四人の冒険家の講演をききにいった。四人とも普通の人には為しえない(あるいは思いつかないような)ことをしていながら、そんなそぶりをちらっとも見せない清々しい人たちだった。その中で、ひときわ私の心に残った人がいる。四度目の挑戦で北極海徒歩横断に成功した大場満郎さんだ。飄々とした人柄に惹かれ、早速本を買って読んだ。日々の仕事に埋没している私には想像することすらできない、圧倒されるような自然の中での体験が書かれていた。読み終えたとき私は、以前ある女性に言われた言葉を思い出した。それは「本当に強い人間が、優しくなれる」という言葉だ。そのときは、なんだかかっこよすぎて恥ずかしい言葉だよなあ、と思っていたが、最近は、素直に受け止められるようなった。(京)

『私用のため』
本当は毎週火曜日にこのロバ耳を更新することになっているのに、今週は私が火曜日にお休みという勝手な理由のために月曜日に更新させていただきました。メンバーの皆さん急がせてゴメンなさ〜い。
ちなみにコドモが小学校へ入ってからというものやけに学校行事が多くてとまどうやら忙しいやらの連続である。(リュウ)

夕べの雨で琵琶湖が氾濫したというので握り飯を3個を持って堰き止めに行ってきます。と言うわけでロバ耳をお休みします。

(かわら)

2001年 6月 5日
『夏は来ぬ』
自宅近くの畑で蛙の合唱がはじまった。彼らがわめき出すと梅雨ももうすぐだなと感じる。子どもの頃「かえるの歌がぁ〜」ではじまる『かえるの歌』を友だちと輪唱して楽しんでいたが、あれほどやっつけ仕事的な歌もないと今になると思う。子どものころは単純明快な「ゲロゲロ、グァッグァッ」を楽しんだが、今は、私もいい大人。「卯の花がにおう垣根に〜」を口ずさみ、日本の夏を迎えよう。(かわら)

『蚊帳復活』

先週ズームイン朝で「ワンタッチ蚊帳」という製品を紹介していた。パラソルと同じ構造で、ひらいたカサの中に人間が入るのである。台所の蝿除けを拡大したものといえば、想像しやすいかもしれない。上から吊す面倒な作業がないし、持ち歩きにも便利。(京)


『子供のケンカ 親の忍耐』
コドモの運動会での出来事。−−−かけっこの順番を待っているコドモと同じクラスの友達が何やらもめていた。最初は些細なことでもだんだん言い争いになり殴り合いのケンカに発展していた。私がケンカをやめさせるために声をかけようとすると、ちゃんと仲裁役の友達が別にいて2人の間に入っている。そうなると私の入る場面はなく妙に感心してまった。きちんと子供達の世界でもそれなりの役割ができているんだよなぁ。余計なところで親が口を出してしまうところだったのを押さえる忍耐力がそろそろ必要なのかもしれない。
「子供のケンカに大人が〜」と言われていたのはちょっと昔。今は子供同士のささいなケンカでもいちいち大人が口を挟み「どっちが悪いの!」「何が原因なの?」とどちらかが悪いと勝手に白黒をつけてしまう。結局親たちに決められた「悪い子」が謝るようになってしまう。お互いの気持ちの中で決着が付かないままであるにも関わらず。親の前で「良い子」を演じてさえいれば、親が見ていないところでは何をしてもいいという間違った考えを持つ子さえいる。歪んだ大人の考えを押しつけられた「良い子」を演じるのは精神的に苦痛で、どこかで発散させないと治まらなくなっていくのだ。過保護な親が多く、小さい頃に本当のケンカを出来なかった子供達はどうなっていくんだろう?と少し心配になる。(リュウ)

『情報の出所』
ネパール王室の惨劇。国王夫妻をはじめとする王族を銃撃により殺した皇太子が自殺を図って重体となっていながら、王位に就き、死亡すると殺害された国王の弟が王位に就く。そして惨劇は銃の暴発による事故だったと発表する。
そもそもこの事件の発表は、いつ誰がしたのか?私はニュースの出所を知りたい。この事件に限らず、毎日次々に起きる事件、ニュースは、どこの誰が発表したことなのか、あるいはニュースを伝えている放送局の記者が自分で当事者から聞き出し、なお裏付けをとったことなのか。私はニュースの出所を具体的に知りたい。田中外務大臣の言動についてのニュースも同じ性質の問題で、食事中にイタリア外相と話したということは、一体誰がマスコミに知らせたのか。マスコミはというより、個々の報道機関は、そのニュースを流すときにその情報がどのような素性のものなのかもう少しきちっと言うべきではないか。ニュースの出所について、意識して聞いていないとニュース源の思うがままに操作されることになってしまう。殺人事件についてのニュースで事件後何日もたってから「○○○のことがわかった」などとニュースで言うことがあるが、これは例えば「○○警察署の発表によれば、犯人取り調べの過程で○○○のことを犯人が自白した」というような表現で伝えられるべき事なのだ。ニュースはニュースの出所を含めて伝えてもらいたい。(宮)

『こどもは何歳が一番かわいいの?』
先日、絵本専門店が場所を提供してくださり、今月新刊として発売する本を紙芝居にして子どもたちの前で披露させてもらった。2〜5歳くらいのこどもたちを前にしての紙芝居。ナレーター、登場人物など3役に分かれて読んでいく。正直、はじめてのことで緊張した。こどもたちも真剣に見てくれているものの、どんな感想をもったのか気になった。間にちょっと休憩を挟み2回おなじ紙芝居をやった。1回目は緊張したが、2回目になるとすこし心にゆとりができた。そんな調子でリラックスしたら、さっきまで緊張気味だったこども達もこころなしかリラックスしているように見えた。こどもには大人の緊張とか、心の動きが微妙に伝わるのだなあと思った。言葉では聞いたことがあるが、自分がこうして、こども達を目の前にして、そういうふうに緊張した気持ちを送っていたのかと思ったらなんだかおかしくなった。こころのゆとりって大切だなと思った。あんな小さくて新しい命にへんな負担をかけたくない。お腹の中の子どもも同じなのだろう。母親がいつもストレスで悩んでいたりするとそれがお腹の赤ちゃんにも伝わるらしい。大人ってこんなにも子どもに影響を与えているのだ。
 同僚は3〜4歳くらいの子どもがいちばんかわいいねといった。確かにかわいいなと思ったが、私は高校生の甥っ子も同じようにかわいい。かわいいという言葉には年齢は関係ないのかもしれない。生まれたては生まれたてのかわいさ、1歳には1歳の、5歳には5歳の12歳には12歳のかわいさがあるのだと思う。まあ、かわいくない時もあるんだろうけど、子どもとはムリしない形でつきあっていこう。(やぎ)