王様の耳はロバの耳 2001.4
〜東京の桜の季節は終わりました〜
2001年04月24日
『出不精』
「出掛けるまでの準備がめんどくさい」という理由で、もともと出不精でしたが、それでも休日も平日も外出はしていました。その頃より、興味のあることや好きなことが増えているのですが、更に出不精になっている関係上、インドア指向です。すると、家にいることが更に楽しくなり、もっと出不精になってしまいました。このままでは、ダメになりそうです…。(みなりん)

『人間我が儘にできている』

女優の高木美保さんのエッセイに触発されて田舎暮らしを始めようと思いたち、高尾に物件を見に行ったが、通勤に思いの外時間がかかり(当たり前だが)、そして、町の風景が私の故郷三重とさほど変わらない、もしくは遙かに都会であることが判明してしまった。田舎から上京してきて、田舎暮らしをしたいというのも、考えたらおかしな話だが、だからといって、三重に帰れといわれたら、できないんだよなあ、それは。(京)


『しま。島。シマ?』
まだ季節は春だというのに、もう夏休みの計画をたてている。数年か前からすっかり島の虜になってしまったわが家としてはどうしても島へ行きたい。(何故かといわれると困るけど)そう思いながらいろいろと探し始めたが、島国の日本でもその周囲には数え切れないほどの島があることに気付く。その中でも南の方の島に絞ったが目移りしてしまう。これからまだ4ヶ月もあるというのに一体どこに決めるのか悩みは続く…。(リュウ)

『わたしの器の大きさ』
このごろ、カルシウムが足りないのか何かと世間に怒りを覚える。しかし、よーくよーく考えてみると、なんだか私自身が、人のためにやっているのに、なんでこの人はありがとうといわないんだろう?とか、なにかいい人ぶって行動して逆に報われないという、悪循環に余計にイライラしているところがある。要は、人に見返りを要求していたことに気付いた。
先日、自転車が強い風で将棋倒しになっていたので、自分のを起こすついでに全ての自転車を起こした。それは、倒れているその自分の自転車を見て悲しかったので、起こしてあげよーっとという気分でがちゃがちゃと起こしていた。しかし、後ろでじーっと待っている人がいる。全ておこしおわるとその人は素知らぬというか、何事もなかったかのように表情を変えず自分の自転車に乗って去っていった。それも倒れていたのを見ていて、サドルのところが汚れていたのか、それをささっと振り払って、まるで「勝手に倒したわね、でも私は大人だから許して上げる」といっているかのように私には映った(勝手な想像ではあるが…)。
なぜか空しい気持ちだけが残った。一言「大丈夫?」とか「手伝いましょうか」「ありがとう」という声でもかかれば救われたのか?そうでもないかもしれないが、その時いらだちながら、なにか見返りを求めてしまうのは我ながら心が狭いと感じてしまった。本当はそんな言葉どうでもいいのである。だけどいつも寂しい思いをしてしまうのは何故なのか。それは多分数年前なら10人中5人くらいは「ありがとう」とか、人にぶつかったら「すみません」とか自然に聞こえてきた言葉が今はほとんど交わされなくなってきたことを感じるからなのだろう。小さな親切やちょっとしたときの挨拶は構えなくても自然に口をついて出てきていた。知らない人同士も、もっと声を掛け合ってもいいのにと思う。今の世の中話しかけて来る人はあやしい人というような気持ちがどこかにある。近年増えている犯罪がそうさせているのだろうか。自分からはなかなか話しかけられない私だが、話しかけてくれた人にはできるだけちゃんとした受け答えをしたいなあと思う。私自身、話しかけてくれる人をどこかで待っているのだろう。あまりに狭すぎる自分の器をみつめながら、今は新しい器を作るべく土をこね始めたい。(やぎ)

『ボローニャ国際見本市』
欧州を中心に、世界中から出版社、著作権事務所などがわらわらとやってきて、出展している出版社と翻訳出版の交渉や情報交換などが行われる。一般の人も交じっていたのか、子ども連れや夫婦で世界中の絵本を楽しむ光景も見られた。私も初日、今回の旅の道連れでもある友人を連れていったのだが、彼女は日本ではメーカー勤務のシステムエンジニア。ふだんハードな世界に身を置く友人にとって児童書の世界はとてもソフトで新鮮だったらしく、目を輝かせて回っていた。私も楽しみ半分、子ども気分で気になるブースに立ち寄りながら回っていたが、やはりそこはビジネスの場。売り手と買い手が眉間にしわ寄せ、顔をつきあわせて、大振りなジェスチャー交えて一冊の本を囲んで喧々囂々しているところもあった。ただ、全体的に女性が多いのと扱っているものが子どもの本なためか、ブースも色とりどりに飾り、キャラクターグッズを置いて、華やかかつなごやかな雰囲気が漂っていた。
子どもの本の世界にもいろんな性質のものがあるが、なかでも、日本のアニメはやはり欧米で人気らしい。日本の紙芝居を行うイベントもあり、外国作品を紙芝居形式で上演したりと工夫もあったが、最初物珍しく集まっていた人たちも、作品が日本の昔話になると、とたんに興味を失って席を立ってしまった。紙芝居文化があったからこそアニメ文化も発展したようなものだが、と、ちょっと寂しくなる一幕も。そんなこんなで2日間見本市を歩き回った。みなも、歩き回って、交渉して、お疲れさまと、午後になると休憩ソファーでぐったりする人多発。中でも中国の人とみられるおじさんがぱっかーんと口をあけて魂をぬかれたような顔で寝ているのには、思わずお疲れさまぁ〜と心の中で呟いた。
見本市巡りに味をしめた友人は、そのあと訪れたミラノでは家具の見本市に行かないかと意気込んでいた。ボローニャは特に観光名所がすくないので、そのかわりにこの見本市を訪れてみるのもおもしろいかもしれない。(かわら)

外出中

(宮)

2001年04月17日
『パソコンは友だち?』
この文章もキーボードをタカタカと打って書いているのですが、手で書くより早く、間違えてもポンとキー1つで直せて、「なんとな〜く、こんな感じ?」という漢字も素早く教えてくれる、パソコンはとても便利なモノです。しかも使っているうちに、私好みの漢字を覚え、「まち」と打てば、「町」ではなく「街」がでる、「おもい」と打てば「想い」と出るみたいにどんどん進化していきます。が、このパソコンの変換機能、ひょっとしたら人間の思考能力と記憶力を衰退させる機能で、パソコンがどんどん頭よくなるのも、指先から人間の頭脳を吸い取っているからなのでは…?とたま〜に考えてしまいます。パソコンにずっと向かっていると目が疲れるというのは常識ですが、私はキーボードを打ち続けていると指の動きが鈍くなるのです。指が自分の思い通りに動いてくれなくれないのです。先日、新刊書籍のチラシを作っているとき、文章を考えつつ文字を打っていると、「ぼくのとうさん」と打ったら「僕の倒産」(こわっ)、「準備完了」と打ったつもりが「準備かんちょう」(いや〜ん)等々、疲れも手伝って、気がついたらすっごい文章になってました。これは、間違いなく、パソコンに私の頭のいい部分を持って行かれたからに違いない。…それだけじゃないか。(みなりん)

『並木路子』

このところ、名前や顔を知っている芸能人や文筆家の人が次々に亡くなった。私がたまたま知っているだけのことで、深い意味はないが…。思いつくまま挙げると、奈良本辰也、大林太良、田久保英夫、勅使河原宏、田耕、並木路子、三波春夫、河島英五、本田桂子。
並木路子といえば「りんごの唄」しか歌っていなかったみたいに、この一曲と結びついている。昭和21年のことだが、戦争が終わって、徴用で働いていた中島飛行機から戻ってきた私の父は、住んでいた世田谷区三軒茶屋で、母と一緒に食べ物屋を始めた。もともとが洋食屋だから本業に復帰したとも言えるが、焼け跡だらけの東京で、金もモノもなく、自宅の玄関を使ってとにかく、家族を養っていくために始めた商売である。渋谷からこっちに白い飯を食べさせてくれるところはここだけだと結構繁盛したらしい。その頃の話だが、近くにある東京植木という会社(この会社、今もある)からよく食べに来てくれた常連の客が「りんごの唄」を歌いながら店に入ってきたものだという話を、母からよくきかされた。それだけの話だが、母が繰り返し話したということは、やはり印象的な出来事だったし、またそれ位、この歌がはやっていたということなのだろう。私は、当時のことを断片的に記憶しているが、母の話した光景は記憶にない。「りんごの唄」は当時ラジオでよく聞いた歌謡曲の一つで、底抜けに明るい調子は強く印象に残っている。並木路子といえば「りんごの唄」と我々の年代は皆知っているし、私も同様だがこの曲以外に彼女が歌っていたことを思い出すことができないぐらいなのだ。(宮)


『やっとできた』
四月の新刊絵本の見本ができてきた。企画から三年、いろいろな過程を経てようやくかたちになった絵本だ。だから感慨もひとしお、のはずなのだが、営業の女の子が差し出す精算見積りを見て、おもわず固まってしまった。このときの私の気持ちは、春にうかれてフラフラ自転車をこいでいたら、マンホールのフタがあいていた、というかんじ。(たとえが古い。)ここに、さらに取材費やらが加わるとすると、考えただけで逃げ出したくなるが、今日くらいは素直に喜ぼう。(精算見積りを社長に見せるまでは。)(京)

『眠い!』
ぽかぽか陽気が続いてもう初夏かと思わせるような日が続いている。そんな季節は、いくら寝ても寝たりない。(いつものことだけど)このところ行事(コドモの)続きの毎日だったこともあり、少し疲れているのかもしれないがとにかく眠い!でもこんなに眠いというのは私だけではないはずで、お昼休みに近くの公園へ出るとベンチでゴロンとなって昼寝しているおじさんもいる。「気持ち良さそ〜」と思いつつもさすがにそこまでは出来ない。でもベンチの上じゃなくレジャーシートをしけば、ただ単に公園でくつろいでいる人と見られるかもしれないと、現在レジャーシートを持って来ることを思案中。(リュウ)

『4月初旬』
1週間ほど失踪して、国外に潜伏していた。その間政治的な活動は一切せず(当たり前だが)遊びほうけておりました。イタリアは、ボローニャ、フィレンツェ、ミラノとまわり、究極な職人技ルネッサンス芸術に浸り、昼夜パスタとワインを食し、「ボンジョールノ♪」「グラッツェ」とイタリア語を操り(二言だけ)、イタリア人と化してきた(行く先々でジャパニーズジャパニーズとはやしたてられたけど)。今回の旅行のそもそもの目的は、ボローニャで毎年開かれる児童書の見本市に行くこと。さて、次回はこのボローニャ児童書見本市のことをここで紹介しようと思う。今回はこれにて。つい先程、入稿を終えて力尽きた。(かわら)

『さるのぬいぐるみ』

数ヶ月前にネズミにさるのぬいぐるみを喰われた話をしたかどうかは定かではないが我が家には、そのさるのぬいぐるみの2代目が一緒に暮らしている。

最近の我が家の会話。(ちなみに2代目の名前は、「さるちょこりん」通称「さるちょこ」と呼ばれている)家に帰って二階に上がり一言。
私「さるちょこ〜ただいま」
さるちょこ「どうでもいいじゃん」(そういう顔をしている)
私「家に一日中いるんだから、溜まったアイロンでもかけといてよね」
さるちょこ「めんどくさいし〜なんでオレがやらなきゃいけないわけ?」(そういう顔をしている)
私「そうだよね、さるちょこは手も小さいしあんまりあてにしちゃ悪いよね」
さるちょこ「そうそう!おれはなんにもしなくていいの!」
私「………」
しかし、今まで個性的な人形は好きだったが人形に話しかける時が来るなんて思ってもみなかった。なんだかぬいぐるみに話しかけてしまう自分が恥ずかしい。しかしなんだか楽しい毎日でもあったして…。たまに夫も加わり3人?で会話してしまう寂しい?狂った?家族だったりするのである。最近はやっているのは、さるちょこをいろんなところにぶら下げてみたり、変なポーズをとらせたり、ほかの人形たちと会話しているような場をそれぞれが(私と夫)作り、相手が見て喜ぶのを見て楽しむのである。毎日さるの行動が気になる今日この頃である。疲れたときにやつの表情をみるだけで私の心は和むのであった。どうしようもない大人?な私である。(やぎ)

2001年04月10日
『大発見』
カップラーメンはフタをして待つと美味しくできる、ということを昨夜はじめて知った。これまでは熱いものが苦手だから、できあがる頃にほどよく冷めているようにと、フタを開けっ放しで待つこと三分とやっていたのだが、夕べあまりに寒いのでフタをして待ったところ、やけに美味しくできてしまった。いつもなら麺に芯が残るか、芯がなくなるまで待って麺全体をふにゃふにゃにしてしまうかなのだが、この日の麺はほどよい固さのくせに芯がない。理由は簡単、フタをするのは、熱を逃がさないためだけではなく、麺を蒸らすためでもあったからだ! 目からウロコが落ちました。。(京)

『町の変化』

久しぶりに、あてもなくフラフラと吉祥寺の町を歩いた、久しぶりに歩いたらいろんなお店がなくなり、かわりに新しい店が登場していた。そんなに長い間来なかったわけではなかったが、こんなに新しい店に変わっているとは、少し悲しい気がした。新しくできては消えて行く。ただの移転というだけのものではない。悲しいけれど、この町のニーズや不況のあおりをうけて、消えていった店もあるのだろう。古い物が残っていく文化というのが、日本には、(都会には特に)あまりないのだろうか。千歳烏山の自宅付近も店ではなく住宅だが、実は次々とマンションが建ったり、古い家を壊して、新築する家が増えている。町並みは新しい家が並び美しくなった反面、古き良き歴史を感じることは今後あまりないのかもしれないと思った。
近所にある唐木細工の職人さんのお爺ちゃんは数年前までは元気に朝から作業をし、小、中、高校への通学路にあったその家の前を生徒たちがとおるとかならず笑顔で手をあげて挨拶をしていた。ここ数年あのお爺ちゃんの姿を見なくなった。病気でもしたのだろうかと心配している。そして、お爺ちゃんには弟子がいなかったのかもしれない。少しずつ世の中から職人が消えていっているらしい。職人さんの仕事が昔はすごく貴重なものだったように、多少値段が高くても、何年も長持ちする家を造ることが出来たのではないかと思えてしかたがない。それだけの仕事だったのだ。誇りを持ってする仕事には歴史が出来る。大切にされる。最近やたらと家が出来上がるのが早くなった。それがこわす周期の早さのにつながっている気がしてならない。何でも始めることは大変だ。だけど、始めたことを続けていくことはもっと大変なのだなあと切々と感じている。(やぎ)


『ミュージックペンクラブ賞』
小社刊行の横田庄一郎著「キリシタンと西洋音楽」が、ミュージックペンクラブ賞を受賞した。ミュージックペンクラブというのは、クラシック、ポピュラーを問わず、オーディオまでを含めた音楽関係の文筆家の団体である。会員全員が投票で受賞作を決めたということで、今回の受賞はまた格別うれしい。というわけで、4月7日表彰式会場である上野の東京文化会館へ出かけた。暖かい土曜日の午後だから、駅前は大変な人出である。動物園と美術館と花見が一緒になっているのだから人出が多いのは当然かもしれない。東京文化会館4階の会議室で行われた表彰式には100人ほど出席者がいただろうか。私は少し早めに着いたのだが、会場では受賞者に渡す楯の包装をといている最中である。表彰式のことなど、どこにも掲示がなくて、よく見ればホワイトボードにうすく手書きされてる。プログラムなどもちろんない。式次第も不慣れなギクシャクしたものだったが、にもかかわらず、そこには受賞者に対する静かな敬意と、会員の人々の間の親密な関係が見て取れる気持ちよい空気が流れていた。そういうわけで、式後のレセプションでも旧知、新知の人々と話が弾んで楽しい半日になった。(宮)

『いろいろあるんだねぇ...』
先週月曜日からコドモが学童に通うようになり2日目に早速のように騒動を起こしてくれました。学童が17:00までで、家から1〜2分しかかからない場所から20分以上経っても帰らない。学童まで訪ねていくとコドモは帰ったとのこと。それから学童の先生方と一緒に近くの公園等を探し回った後、学童初日に仲良くなった友人の名前を伝えるとすぐにその友達宅へ…。案の定その子の家にあがりこんでいた。
先週の金曜日に入学式を終え土曜日に1時間ほどの授業を終えてまっすぐ帰宅したのはいいけれど「友達の友達と公園で遊ぶ約束をした。」というコドモ。「友達の友達って誰?何時(いつ)?公園のどこで?」わからないだらけの約束の内容を聞いて仕方がないので公園まで付いていって待つこと小1時間。約束の友達が現れてちょっとホッとする。それにしてもほんの1週間前までは保育園で送り迎えをしていたのに、小学校に入った途端に親の知らない世界が広がっていてまったくどうなっているのか。でも周りの人の話を聞くとよくあることらしい。そんなドタバタした1週間を送って一気に疲れたのであった。
ちなみにタイトルは小社より発行している「いろいろあるんだ」にちょっと似てる?(リュウ)

『楽しめ、修学旅行』
朝、甲州街道で信号待ちをしていると、1台、2台と修学旅行(らしき)バスが目の前を通っていきました。最終的に12台通り過ぎたのだが、みんながみんなきちんと前を向いて大人しく座っていて(隣の人とくらいは話しているとは思うが)、あまりのマナーの良さに「へえ〜」と少し驚いた。思い返してみても、修学旅行のバスの中で大人しく座っていたことなんて、私の記憶にはない。中でも一番はしゃいでいたのは、小学校で東京へ来たときだろう。新宿のど真ん中で渋滞にはまり、景色が動かずつまらなくなった私達は「おねえさ〜ん、元気ですかぁ」と窓から歩いてる人に話しかけた。するとその人は「ニコッ」として、手を振ってくれたのだ。「都会の人が私達に答えてくれたぁ」と小学生の私達は大いに感動、そして遊び心に火がついた。初めての都会、やや興奮気味だったのだろうが、そこから目的地に着くまでの時間、歩いている人ほぼ全員に窓から挨拶をし続けた。先生に「やめなさいっ」と怒られながら、「お〜〜〜い」「やっほ〜ぃ」「きゃっほ〜」と、外の人に向かってアピールし続けたのだ。先生はさぞ恥ずかしかっただろう。でも、私達は楽しかったのだから、良かったと言うことで・・・。(みなりん)
2001年 4月 9日
『記憶の味』
ずっと以前に食べた味の記憶が、ふいによみがえることがある。私の場合、それはたいてい夜布団に入ってからのことで、何がきっかけかはわからないが、どこかで食べたことのある味が突然舌によみがえり、それが何なのか思い出せなくて悶々として眠れなくなる、ということごくたまにある。それは凝った料理や高級な料理の味ではなくて、素朴な味であることが多い。麦こがしをお湯で練った味だったり、砂糖の入っていないきな粉であったり。夕べの、ほんの少し甘くて香ばしい味の正体が、お餅のこげ目だと思いあたったとき、記憶の味はさらに濃厚になって口の中にひろがった。(京)

『お花見』

先週末にお花見をしたいという話になり、しばらく前から人をさそったり持っていくものを考えたりと楽しい時を過ごしていた。お花見は31日の土曜日といえばあの雪のふった日である。なんだかいつもよりもかなりハイテンションでむかえた当日だったため、朝、雨が降っているのを確認、しばらくすると雪が降ってくる空を見上げながらなんともいえない空しい気持ちに襲われた。
お昼からやむかもしれなくても、地面は乾かないだろう。どうりで寒いはずだ。おかげで心まで寒くなった。最後まで人数が増えたり減ったりしていたので、持ってくる物が足りなくならないか不安だったので、一人で前の晩にいろいろなものを準備していた。私は一度やると決めるととことんならなければ気が済まないのだ。
天気が悪いので中止と決まり、一通り参加者からの連絡が済んだ後、参加者の一人のJととにかく時間がぽっかり空いたから新宿でお昼でも食べて、もしよければ新宿御苑でお花見(あの雪の中)をしようと話はまとまった。気分はもう花見である。しかし、一度春らしい陽気を体感してしまった体に、寒さはこたえるだろうという予想は当たった。しかしご飯を食べ、3時ごろに園内に入る。こんなに寒い中、思いのほか人が来ていた。もちろん晴れたときの10分の1にも満たないだろうが…。誰も座っていない芝生の両脇には桜の花が見頃を迎えて咲き乱れていた。そうこれが見たかったのだ。静かに園内を回りながら花の観察。Jいわく、咲こうかなと思った桜の花があれっ?という形に開ききれないでいるという。よく見ると、開ききった花は一部でJのいうとおり「あれっ?」という形に固まっていた。あまりにも、その表現がぴったりなのでおもわず笑ってしまった。新宿御苑は都会の中にありながら、なんだか全ての喧噪を飲み込んだような美しさだった。朝からモヤモヤしていた、私のお花見熱はかなりの勢いで癒された。しかし、あまりの寒さに一時間もいると手足が凍えてきた。「雪見酒」なるものは有るが雪の中に咲く桜(雪見桜)を見物する機会はあまりないだろう。なんだか良い経験をした。その後、冷えた体を温めるため、Jと茶を飲みしばしおしゃべりをしていい気分になったのはいうまでもない。(やぎ)


『新○○』
街はフレッシュな「春ですね」空気が充満しています。我が家でも一緒に住み始めた妹が、新社会人です。新しい環境=新しい出会い=恋の予感…ハァ〜うらやましい、一緒についていきたい!!と思ってても、ついていけるわけじゃないので、入社1日目、帰ってきてグッタリしている妹にさっそく様子を聞いてみると、仕事はとても大変そうだ。目を通さなければならない書類は山のようにあり、覚えなければならないことも恐ろしい程ある模様。更に英語の会議があり、「議事録をとってね(もちろん英文で)」と言われたそうだ。上司は、バリバリのキャリアウーマン風、社内で一番英語も上手いらしく、モタモタ仕事をしていたりして、「英語得意じゃないんですぅ」なんて言ってしまったら、張り倒されるのだろう。なので、2人(せっかくなので私も)で明日から「基礎英語」「続・基礎英語」を聞くことに決めたのでした。ちなみに出会いはなかったらしい。残念…。(みなりん)

『そわそわ』
春になると冬眠から覚めたクマのようにみんな慌ただしくなる。冬の間は寒くてなかなか外で遊べなかったうっぷんを晴らすかのように、または4月から新しい生活が始まって何もかもが目新しいからか?
わが家でも4/2(月)から学童クラブに通い始めたコドモが新しい友達や環境を楽しんでいる。いつもだったら朝ねぼすけで何度起こしても起きない彼が、朝早くから起き出してあっち行ったりこっち来たりウロウロする。時間というものをまだ把握できない彼は「学童が始まるのは9:00からだよ」と私が言っても「もう9:00になった?」と何度も何度も私に尋ねる。どう説明したものかと思いつつ「まだっ!」と繰り返す私。
夜勤明けで帰ってきたパパも公園に日焼けをしに行きたいらしく、いつもよりも早く帰ってきている。寝転がれるようにレジャーシート等を準備をしてそわそわ…。っと言っている私も冬の間に出かけられなかった公園巡りを昼休みを使って楽しんでいる。
これからいろいろな虫や動物たちが活動を始めるのと同じように、人間もどこかで暖かくなると活動するようになっているらしい。(リュウ)

『ふたたび桜』
この季節、なんのかのといいながら桜のことを気にしている。今年は早く咲き出したのに、突然冬に舞い戻って春の雪が降りだした。その影響で花が長持ちするだろうと思っていたところ、雪の翌日の花は、何か力無げ、色が抜けたように見えた。しかも地上に花びらでなく花が丸ごと落ちている。これは寒さにやられてしまったのだと早呑み込みしたが、新聞を見たらすずめのせいだと分かった。花のミツを食べる習性のないすずめが味をおぼえて花の元を食べる。その結果花が丸ごと落ちるのだそうだ。この習性が仲間のすずめに広まりつつあるとか。
そして4月3日の朝、都心に比べると多分遅めに咲いた八王子南大沢の桜は満開で、雪の影響もすっかり去ったかのごとく、威勢良く咲き誇っている。前日に比べて気温がぐんと上がって、いかにも春らしい暖かい空気の中に桜を見るのは気分がよい。(宮)