王様の耳はロバの耳 2001.1
〜全国各地で大雪が降っています〜
2001年01月30日
『こんな日ぐらいは……』
雪は大好きだが、東京で降る雪には少しばかり憂鬱になる。
自転車通勤の身には、雪の降った翌日、翌々日が、本当につらいのだ。
車道の雪は二、三日もすればきれいさっぱりなくなっているが、歩道に残った雪は、わずかだがしつこくへばりついている。これが非常に困りもので、よい加減に踏みしめられ、アイスリンクのようにツルツル、カチカチに凍っている。日の当たるところでは、鏡のようにピカピカ光っているが、そうでないところでは、水を撒いた後の黒いしみにしか見えない。したがって、気づいて失速したときには、すでに前輪が乗り上げて、うっかりブレーキをかけると転倒、ということがよくある。
実は昨日の朝も自転車で会社に行った。途中の高井戸付近の高架下で、八十メートルほど前方にトラックをみとめた。道路の両端には、まだ雪が残っている。私は歩道を避けて車道を走っていたので、危ないから念のため降りようとブレーキをかけた。そのとたん、自転車ごと転倒して、私だけずるずると道路の真ん中まで滑って行った。──自転車はすでに氷の暗礁に乗り上げていたのだ。トラック迂回して大事には至らなかったが、私の足の指には、全治二週間(たぶん)のあざが残った。(京)

『雪が降ったら…』

先週、今週と雪が東京を覆った。残念ながら先週は千葉の実家に帰っており、解けたあとしか見られなかったが、今週は思う存分(?)雪に親しんだ。土曜日は11時から会社に出なければいけなかったので、雪の中でかけた。家の戸を開こうとするとすでに雪が積もっていて開けにくい。見るとお隣さんが雪かきをしている。こういう姿を見ながらなにもせずに出かけるわけにはいかない。
私「おはようございます」
お隣「おはようございます。今のうちにひとかきしとかないと玄関があかなくなっちゃうからねー」
私「そうですよね。早めに一回やっとかないとですよね」
といいながら、やっぱり雪かきを始めなければ出かけられないような気がして10分ぐらいささーっと雪かきをすませた。いつもなら、会社まで自転車で10分の道のりだが今日は歩いていかなければ…。しかし、土曜日であまり踏み固められていない道路は真っ白で、そこらじゅうがなんだかキレイでうれしくなった。10分遅れで会社到着。外の雪はますます激しく窓のそとは真っ白に吹雪いている。数人の遠くから通勤している同僚達が「帰れるかなあ」とつぶやく。私は近いのでまあ大丈夫だろうと心の中で思う。私は早く帰って雪だるまを作りたいと思っていた。昔から雪を見ると創作意欲がわく。6時に会社を出ると、雪は雨へと変わっていて、あんなにキレイだった雪はほとんど水分を多く含み重くなっていた。こんな雪で雪だるまが出来るのか不安になった。早速家の前の雪かきをしつつ、汚れていない雪をかき集めて小さめの水っぽい雪だるまを作った。物足りなさがのこったが仕方ない。

翌日はうってかわっての晴天だった。まえまえからの約束で友人の家にあそびにいくと…そこは大きな庭があり、手つかずの雪が目の前にあった。
友人に「雪だるまつくっていい?」と聞き、他総勢4名で雪だるまを作り上げた。日本の雪だるまは2段だけど外国のは3段式らしい。どうしても3段にしたいと友人がいうので3段の雪だるまが完成した。手や足、目までつけてなんだかお腹の出た中年雪だるま(でも少し色気がある)だ。早速デジカメでの撮影会。後日友人からメールで写真が届いた。ものたりなさを吹き飛ばした楽しい時間だった。しかしそのお宅のご両親にしてみれば30歳の娘の友人(やっぱり29〜30歳)があつまって何をしているかといえばこんなことをして喜んでいる姿は異様に写っただろう。雪の無くなった庭もなんだかあれて見えた。でも「又雪が沢山ふったらあそびに来るね」という言葉を残し懲りずに去っていったのであった。(やぎ)


『雪の朝』
先日、東京に雪が降りました。風も冷たく、激しく、まるで吹雪のようでした。
前の日に、天気予報で雪が降ると言っていたので、電気毛布の設定温度も少し高めにし、
朝起きたときに寒くないように、暖房もタイマーをかけ、準備万端で布団に入りました。
翌朝、「どんくらい積もってんのかな」とカーテンを開けたとき、私の目に飛び込んできたのは、干しっぱなしのタオルでした。ちょっと風になびいた形で、凍っていました。(みなりん)

『きっといつの日か(願望編)』
先週末、コドモの誕生日だった。贈り物は何にしようか何日も迷っていた。何しろ自分の洋服を買うのでさえ選ぶのが苦手な私にとって、人に贈り物をすることは何とも大変なことだった。本人に聞くのが一番と思って聞くと「ゲームのソフト」で、なんだか味気ない。まあ贈り物を本人に聞いてしまう私も私だが…。毎晩眠る前に図書館で借りてきた本を読んでいるので、いろいろ考えたあげくに何冊か贈りたい候補を決めてコドモに聞いてみた。(どうせだったら私もコドモもまだ読んだことのない本にしたかった為)何冊か候補に上った中から1冊に絞り込み書店へ。
生まれて初めて本を贈るのは少し期待と不安が混じる。特に自分が読んで聞かせるとなればなおさら反応が気になる。誕生日の夜、いつものように本を読み始めた。1ページめくるたびに話に入り込んでいるのが分かる。読み終わる直前からコドモは「かわいそうだね。」といいながら泣いていた。その日からしばらくの間はその本(「葉っぱのフレディ」)を読むことになりそうだ。
いつか彼が大人になったらこの贈り物のことを思い出す日が来るのだろうか?
(ちなみに本人の希望だったゲームのソフトもしっかりと贈り物になったが、私の方が夢中になっている…)(リュウ)

『もちつき』
私の住居は多摩ニュータウンの中にある。都立大学に隣りあわせていて、三つのブロックに分かれている。旧住都公団(分譲)、都公社(賃貸)、都営(賃貸)の三区分である。大雪の翌日の日曜日に、公団のブロックで雪かきをして大きな場所を作り、住民が大勢出てきてもちつきをしていた。ペタンペタンというのどかな音が響き、長机を出して、あんころもちをこどもたちが食べている。公団のブロックでは、季節の節目にはよくさまざまな行事をしている。バザーあり、出店あり…。行事を実施するのは分譲のブロックだけなのが面白い。他のブロックとは明らかに住民の考えが違うのだと思う。分譲ブロックでは、住民が長く住み続ける意志があって、住民相互の融和を図るために必要と考えて行なっているのだろう。(宮)
2001年01月23日
『ネズミ騒動』
ネズミが家に出没するという話は以前にもしたことがあるが、年末年始の帰省のあとが一番悲惨だった。最近食べ物をそのまま出しておくとネズミに喰われてしまうので、全て喰われないようにしまい込んでいたから、ネズミは困ったらしい。寒いし腹は減るし、「仕方がない2階にいけばなんとかなるかも」といったかいわないかは定かではないが、2階に行き、そこで閉まっていたふすまを食いちぎり中に入り込んだらしい。そこには私が年末に購入したかわいいさるのぬいぐるみがあったというのに…。帰ってきたらさるのぬいぐるみが元の場所にいない。まさかとおもいソファーの下を覗くとそこには悲惨な姿のさるのぬいぐるみが横たわっていた。顔はすでに残っていなくて、綿がもわもわと広がっている、よく見たら入り口付近にしっぽだけ転がっている。修復不可能のさるくんを泣く泣く処分した。動物は生きるために必死なのがわかった。私もこれからは必死にいきなければと心に誓った。ネズミよみておれ、さるのぬいぐるみの恨みをどうはらそうかとおもいながらも2階にあがってこないための作戦として余り物を餌皿に置くという矛盾した毎日を送っている。(やぎ)

『ラジオ体操』

近ごろ健康のためにラジオ体操をしている。チャンチャンチャラ〜の音楽ではじまるなつかしのあれ。朝は無理なのでテープに録音し、好きな時間に体操している。という話を人にしたら思い切り笑われてしまった。私は消去法で行くとラジオ体操しか残らなかったことを順を追って説明したが、それでもおかしいという。
ジムに行っている時間はないし(経済的余裕もない)、ジョギングするにはあまり安全とはいえない地域だし、場所もとらず金もかからない運動としてラジオ体操はベストだとおもうのだがなあ。第一・第二を二回づつやれば、ホントにもう、いい運動なのである。運動不足だなあと感じている人にぜひ勧めたい。そのかわりアパートやマンションに住んでいる人は、音が漏れると周囲の人におかしな人と思われる可能性大。(京)


『KSD』
世の中のこと、たいがいいろいろな形でわれわれにも関係があるもので、KSDもその例に外れない。事件が報道され始めた時点で、私は続ける気がなくなって脱退したが多分10年ほどは入っていた。そもそも、取引のある信用金庫の営業マンに誘われて、半分は内容に納得し、半分は信用金庫とのつきあいで入ることにした。信用金庫の営業マンだって、上司の指示で営業している会社の経営者を次々に誘っていたのだと想像される。
KSDの事業の本来の中心は、中小企業の経営者が事故にあいケガしたときに、それを補償しようということだから目的は悪くない。考えた人(役人だが)は頭がいい。月々の支払いもわずかだから、多分私のように気軽に入った経営者が多いのだろう。ところが会員が増えてくると、ちりも積もれば山となるで巨額の金がたまってくる。考え出した人は、さらにいろいろと新企画、新事業に手を出し、その過程で取引先とも様々な関係ができてきた。それからもう一つ、自分で作った事業団にたまった巨額の金が、自分の金に思えてくるのだろう、自分用に使い出した。こう言うことが2〜30年の間に進行して、今回事件になって世の中にさらされたというわけである。(宮)

『ゆきだるま大作戦』
自転車通勤の私にとって雨、雪は大敵。でも関東地方でも今年に入ってから2度ほど雪が積もったが、どちらも週末だったので「明日は遊べる!」と楽しみで仕方がない。いつもの休日ならかけない目覚まし時計をかけておいた。
気のせいかもしれないけど、大雪が降った次の日くらいは天気がいい日が多い。案の定、少しずつ雪が溶けてきているのが家の窓からもみえた。「急がなくては…」気が焦るばかりにコンタクトレンズを洗面所で落としてしまい手探りで探す。急いでいるときに限ってなにか失敗をする。やっとの思いでレンズを探し出し、今度は心を落ちつけて装着完了。
外に出ると道路の雪はほとんど溶けてしまっていた。公園でも「いつ用意したのだろう」と思うほど大勢のそりを持った子ども達がそりを滑って楽しんでいた。しかし、その大勢があだとなり茶色い土が見えはじめていた。「このままではイカン!」と人があまり踏み荒らしていない雪を求めて移動する。
目的は『白いゆきだるま』を作ることなのだが、溶け始めてしまったせいなのか
雪質が違うせいなのか分からないが、土までめくれてひっついてしまいところどころ日焼けした(土が付いた)『茶色いゆきだるま』になってしまった。
今週末にも雪が降るようなので、今度こそ『白いゆきだるま』をつくる作戦を練る。(リュウ)

冬眠中。ZZZ・・・・・・。
(かわら)

代休中。

(みなりん)

2001年01月16日
『ある日のできごと』
会社の備品を壊した。ロッカーの鏡に続いて2台目。計量量りを壊した。横着して、山のように積み上げた荷物の上に乗っけて移動したら、案の定落ちた。あっ、ガチャンッ!ひゃぁっ!ぅぁぁぁ、どうしよう・・・・・・、と誰もいない日曜日の職場で、ひとり静かにパニくった。あたしゃなにやってんだろうと、ため息つきながら散らばったかけらを拾い集めた。幸い、割れたのはかぶせてあるカバーだけで、針は正常に動く。カバーもきれいに割れてくれたので、かけらは全部収拾できた。何事もなかったかのように装うんだと、職場の隅のテーブルへ運び、修理屋職人と化し、かけらをパズルのように組み合わせながら、ガムテープ片手に、ひとしきり修繕作業に熱中し、量りは無事完治した。リハビリのかいもあって(正常に動くか、荷物をいくつか測ってみた)ほぼ元通り。テープでつぎはぎした傷跡は、バイク事故後のビートたけしの顔のように痛々しいが、事故後に目覚ましい活躍をみせた彼のように、これをバネに量りとしての才能を開花していってもらいたいと願った。今のところ、誰も気づくことなくおだやかに日々は過ぎている。(いや、気づいている人はいるだろう。壊してごめんなさい)(かわら)

『50年』

いまから50年前、つまり1950年(昭和25年)は私が小学校に入学した年である。その昭和20年代後半のころと記憶するが、産経新聞に伊藤正徳が
「大海軍を想う」という連載物を書いていた。当時、新聞を毎日買いに行った憶えがある。
その記事の中で、日本海海戦から50年経って云々というくだりがあった。日露戦争は1904年〜1905年だから、1954,1955年は丁度50年後にあたる(すると、あの連載は昭和30年前後だったらしい)。小学生の私には、50年はとてつもなく昔のことに思えた。たしか戦艦三笠のことを書いていて、50年の間に三笠は、日露戦後一度事故で爆沈し、その後引き揚げられて記念鑑になった。そして戦後は、兵装をとりはらわれ、ダンスホールに身を落とした。再び記念鑑になったのは昭和30年代に入ってからのことだったはずだ。
50年間は、いろいろなことが生起するに充分な長さだが、今、1950年からまた50年経って21世紀に入った。1950年は小学校入学の年だから、記憶がはっきりしている。それ以降のことも、マスコミの力で、一通りの情報は持っている。振り返ると、いろいろな出来事を積みかさねたあげくに、50年前とはすっかり違った社会になっている。年をとることと時間の感覚の変化が面白い。(宮)


『三次元の空間』
アパートの近所にいつの間にか更地ができている。何かがすこんと抜け落ちた風景を見て、以前ここにあったものを思い出そうとしたがなかなか思い出せない。いまにも潰れそうな年季の入った家だったと気づいたときは、こんなせまい敷地にあったのかと意外に感じられた。
それからほどなく、ブルドーザーがうなり声をあげる日々がつづき、ネズミの迷路のようなコンクリートの伽藍(?)が、がっちりと埋めこまれた。こんな敷地によくも三軒ならべたものだなあと感心していると、いよいよ柱が組まれ、みるみる間に家屋の骨格ができ上がっている。
建てかけの家ほど子どもの好奇心をそそるものはない。幼い日にかいだ新しい家のにおいの記憶がよみがえり、いてもたってもいられなくなった私は、現場に人がいなくなる夕刻、年甲斐もなく敷地に無断侵入して建てかけの家のすき間に顔を突っ込んでみた。じゅうぶん犯罪行為だが、お菓子の袋を片手にもっていなかっただけよしとしておこう。幸いなことに屋根はまだできておらず、ビニールシートごしの月明かりで中がぼんやりと照らしだされた。すると外からはいかにもウサギ小屋の体に見えたのが、中に入ると予想外の広さがあって驚いた。薄明かりのせいで濃淡が少なく奥行きがはかれなかったせいもあるかもしれないが、どうやら空間は、区切られ方によって面積が伸縮するようだ。二次元で区切るよりも、三次元で区切る方が遥かに広く感じる。こんなふうに感じるのは、私たちが三次元に生きているからだろうか。ビニールシートを透過した柔らかな光を浴びながら、わたしは次元の溝に填り込んだ不思議な感覚にしばらくひたっていた。(京)

『同じ小学校へ入学だった…』
昨年末に家の近所で一家惨殺事件が起きていた。年末年始は九州に帰省していたのでニュースで事件を知らされた。自宅に戻ってきてからも被害者宅の周辺には
現在も「立入禁止」の黄色いテープが貼られている。毎朝自転車でその家の前を通るたびに、コドモが「まだ犯人はつかまっていないの?」と不安そうに聞いてくる。コドモながらも人が殺されたという事実は理解していて、大人よりも敏感に受け止めているようだ。特に夜になると私のそばから離れようとはせずにトイレにまで付いてくるようになってしまった。周辺もどこかぎこちない空気が漂っていて、私も無意識にだが他人の手ばかり気にして見るようになってしまった。(犯人が手にケガをしているというのをニュースで知ってから)
怨恨か金品が目的かは分からないけれど、幸せだったであろう一家族の命を奪う権利があったとは思えない。被害者の方々のご冥福をお祈りすると共に、1日も早い事件の解決を願っている毎日。(リュウ)

前回付いた「運(うん)」により外出。(詳細は1月10日号『運がついた日』をご覧下さい)
(やぎ)

営業で外出。

(みなりん)

2001年01月10日
『21世紀になりました!!』
でも、ドラエもんはまだいない。
新しい年、新しい世紀になったと言うことで、今年の目標を考えてみたけれども、特にないなあ…。何か考えないと、だらだらとした1年を過ごしてしまいそうな…そんなこんなで、気付いたときにはもうおばあさんになっているでしょう。
さて年末年始は、長野に帰省していたのですが、東京にいるとほとんど使わない方言も、帰った途端しなやかにしゃべれるのでびっくりです。しかも今回はちょっと長めに帰っていたので、東京に戻ってから(今現在)も、抜け切らなくています。でも長野(南信)の方言は好きなので、困ってはいません。もっと長く帰っていたかったなぁ。
(みなりん)

『運がついた日』

毎年恒例ながら、今年も夫の実家に帰省した。帰省=寄生ともいう。つまりこの期間は佐世保にある実家にいるのでガス、電気、水道他食費などの一切の出費がストップする。とはいえ東京から佐世保まで大人二人だと往復8万くらいするのだが、この出費はたまに会える人たちと会うためには必要経費と呼べるだろう。帰る列車に乗るまでが私の一年の一番忙しい時となる。私はいつもなんでもギリギリにならないと始めないので、今年もかなり年末はオニのように忙しくなってしまう。今年も年賀状は買ってきてはいたものの図案はちーとも思い浮かばない。あれよあれよと日にちはすぎ、28日の夜にしこしこと年賀状の住所リストを作り29日は帰省みやげやらなにやら買い込み、年賀状のためのはんこやペン類を揃え夜からせっせと絵も文字も手書きの年賀状を書き朝を迎えたのである。なんのために徹夜をしているんだろう?隣では夫がのんきに寝息を立てている。30日の朝には東京を出ようねとは行ったものの朝方4時にちょっと横になろうと思ったらあっという間に10時すぎていた。「予定は崩れるためにある」という夫の言葉を励みに(励ましなのか?)帰省の荷物を大きなリュックに詰める(何故にリュック?)。博多まで新幹線で約6時間、博多から佐世保まで2時間の大旅行が始まる。本や食べ物、飲み物は必需品である。昼頃新幹線に乗り込み9時ごろには佐世保に着くことができた。
翌日から夫は米の配達要員としてかり出され、私は年末の家の掃除を始めた。あと一日早く帰っていればもう少し手伝えたのにと少し悔やむが、仕方がない。来年は早く来ようと心に誓う。そんなこんなで年が明けた。21世紀となったのだ。
でもなにが変わるわけではないのだ。
3日に買い物のために義父や甥、義弟、夫などと車で買い物に行くと途中で義父が海の近くに連れていって一同はそこでおりた。しばし遠くをみつめる5人。水面に石を投げ、水切りをしてみたり、太陽に向かって叫べだのみんな勝手なことを言っていたその矢先。わたしは足下を疑った。右足の下の感触。ずばり大きな糞のど真ん中大当たりの場所にわたしは足をのせていた。「げーっ、うんこ踏んじゃった〜」の叫びに一同大爆笑。私もショックはあったもののこんなに堂々とうんこを踏みつけたのははじめてだったので情けなさとおかしさでお腹が痛くなるほど笑ってしまった。近くの草むらで靴についたうんこを擦り取り、義母の待つ家へ。母いわく「よかったね〜まきこさん、うんこを踏むと運がつくっていうからね〜。新年早々ついてるね」といわれて複雑な気分になったものの。21世紀を迎え、運がついた私に満足した正月となった。ちなみに友人に話したらうんこを踏むと運がつくっていうのは知ってる〜とのことだった。(やぎ)


『新年の挨拶』
明けましておめでとうございます。とうとう新世紀がやってまいりました。実はわたし、二十一世紀が今年からだって知りませんでした。
三が日は三重の自宅で過ごしましたが、もっぱら食っちゃ寝、食っちゃ寝して、すぐそこのコンビニに行くにも車で連れてってもらうような生活をしていたら、手足が退化してしまいました。ああ恐ろしい。
今年の抱負は、衰えつつある(重くなりつつある)身体の活性化をはかるために、毎日ラジオ体操をする、というところでしょうか。本年も朔北社および朔北人をよろしくお願い致します。(京)

『超高齢出産』
「56歳で初産、60歳で第2子出産」。新年早々、新聞の一面に踊るこんな見出しに目を見張った。産後25年間の母親の健康が保障されれば、産んでもよしと許可を下ろすらしい。事情があってなかなか産めない人には有り難いことかもしれない。しかしなぁ、健康であれば大丈夫ってモンじゃないだろう。あんた、子どもが20歳の時、母親76歳だよ。
年老いた母親が孫のような子どもをどう育てるのだろう。子育てに必要な気力も体力も、年齢と共に衰えていく。子どもがわけわからんことをぐぢゃぐぢゃ言ったときにパシッと、年老いた母親に戒めることができるのだろうか。可愛くてしょうがないから何言っても子どもの言いなりに・・・なんて危惧はしないのだろうか。しかし、子どもはまだかまだかとこうるさく言われるお嫁さんにとってはいいことかもしれない。「あら、お母様。今は60歳でも産める時代なんですよ。ご自分でお産みになれば」なんてやり返すことができる。高齢出産も行き着くところまで行ったら、今度は男性のお産問題が話題になる日もそう遠くないとみた。21世紀、科学の発展なんてきれいごとでひっくるめられて、人間の欲がどんどん深まっていくのだろうな。(かわら)

『深夜の流行歌』
もちろん年のせいが一番だが、体調がよくないせいか、あるいは悩み事が多いせいか理由はともかく、最近真夜中に目が覚めて、そのまま寝付かれず、やむなくラジオの深夜放送のスイッチをひねることがある。すると3時台に昔の流行歌を時間をかけて丁寧に当時のレコードで聴かせてくれる。
例えば10日午前3時には服部良一の1日目で昭和12年の「山寺の和尚さん」から、戦後の「東京ブギウギ」「銀座セレナーデ」など。若いころの淡谷のり子、霧島昇、藤山一郎など、声にのびがあり、声量に余裕があり楽しめる。この番組を聴き始めるとかえって目がさえて、眠れなくなって困ります。
1週間ほど前には並木路子の「りんごの唄」を聴いたが、このレコード、驚いたことに霧島昇が一緒に歌っていた。レコードを作るときに、この曲を聴いた霧島昇がいい歌だと思い、割り込んだ結果だと解説していた。(宮)

『ごあいさつ』

明けましておめでとうございます。(といってもお正月はだいぶ過ぎていますが…)今年もさらに楽しいHPにしていけたらと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。(リュウ)