「この本おもしろかったよ!」
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大人問題

大人問題

五味太郎/著
講談社
(講談社文庫)
最近、おもしろい本を読んでいなかった。活字を読むのもなんだか頭が疲れていて、どうも気がすすまない。しかし、暇つぶしをするのになにか読みたい。ある時は喫茶店でコーヒーでも飲みながら。または電車にガタゴト揺られながら。

ふと、入った近所の本屋の文庫コーナーを覗くと本の題名が次々目の中に飛び込んできた。気軽に読みたいときに文庫はありがたい。「おおっ!前に本屋でみた五味太郎の『大人問題』が文庫になっているじゃあない」ちょっと立ち読みしたら面白かった。これならと思い購入。人との待ち合わせの間読みふけった。五味さんが、普段思っていることを散文的に次から次へと書いているエッセイだ。『大人問題』(お笑いの『爆笑問題』みたいな題名だなあ。)の大人と問題の間には、ちゃんと装幀で「おとな は もんだい」「おとな が もんだい」「おとな の もんだい」と読めるようになっている。五味さんのスルドイ言葉とユーモアに思わずニヤリとしてしまい喫茶店でアヤシイ人と化した。親が子どもに思うことは、常に心配だったり、期待だったりするわけで、この子はこんなことばかりで将来大丈夫なのだろうかとか、自慢の息子、娘になってもらうには、一流の大学に行って、会社にいって…と考えている人も世の中には多い。実は世間のものさしで計られた一流というのは見かけ上の一流だと気付いていない。本当はいろんな意味の一流がいるのに。

例えば、似顔絵を描かせたら一流、言葉でいわなくても気持ちを察しちゃう一流、人を笑わせる一流、やきそばを作らせたら一流とか、マンガの読み手として一流とか、階段掃除をさせたら一流、馬に好かれる一流なんていうのもありだと思うのだ。

この本の中で先生は学校で「服装の乱れは、心の乱れ」というが…と一般論を書き、五味さんは「心の乱れ」ついて「心は乱れるためにあると思う」といっている。誰しも、嬉しいことがあれば誰でも興奮して喜ぶし、悲しいときは髪を振り乱してわめいたりする(わめきはしないか…)。それに、心乱れぬ冷静な人を誉めるかと思えば「氷のような冷徹な人」「あの人に心はない」なんて言葉で言うこともあるくせに心はみだれちゃいけないなんておかしな話である。ミヒャエル・エンデの「モモ」の主人公の女の子モモは乱れた髪に、きたない服を着ていたではないか!人は見た目で判断してはいけないともいうし…矛盾だらけ…ようは、こういえば、ああいう。なんでもかんでもナットクしない大人に問題がありそうだ。

その例としてなんでもナットクしない経験を思い出した。最近小学生むけの本が売れなくなったという。とくに読み物は売れないという書店に久しぶりに営業に行った。絵本が出来ましたという。そうすると「うちは絵本は売れない」なんて冷たいことをいう。絵本といってもいろんなものが有るのにそれをひとくくりにして絵本は売れないなんて…。(この間は読み物は売れないっていったろうが)とムムッときた。結局その書店では何が売れているのだろう。きっとなにも売れていない気がした。売る気がないのだ。ようは我が社の本は置きたくないのだ。持っていった本を気に入って置いてみようと思っていない。もしかしたら売れるかもしれないけれど失敗したくないのだ。「今回のは、この書店の方針、私の販売方針にあわないから、置けません。こうこうこういう本があったら是非教えてね」だったらなるほどと思えるのに、「配本で様子見て」とか「とりあえず3冊」だったらなんだかむなしさ倍増だ。まだ「私は○○出版と○○出版の物を売りたいの!」の方が同じ言葉にもかわいげがあるし、そういう方針があってもいい。だったら、徹底的に書店が本を選べるようにいろんな情報は持って行くから配本制度をやめればいいのにと思う。そんな時私の心は乱れっぱなしだ。常に人の心は乱れている。時にホッとして静かな気持ちになるから、穏やかな気持ちも感じられるというものだろう。

五味さんは「みんな仲良し」は問題だという。私も、みんな仲良しなんてありえないと思うし気持ち悪いと思う。40人のクラスのなかで全ての人と仲良く出来るはずがない。気の合う人もいれば、一緒にいても気をつかうだけの人もいる。でも、自分の気の合う人とだけいるときには気付かないことを、あんまり気の合わない人から教えてもらったりして、一目おくこともある。いろんな人がいるんだから。そういうんでいいと思う。「仲良く」は強制して出来ることではない。かくいう私も子どものころ、学校の先生から「仲良くしましょう」といわれて、真面目にそうしていた。仲良くするのは大変。気の合う人とは、楽しく過ごしても、そうでない人と楽しく過ごすために人に合わせます。そうすると、そんなこと一日中していたら、頭がおかしくなって、切れるのもムリはありません。でも自分はいい子になろうと必死でした。親にいい子になれと言われたことはなかったけど、親が学校で「あんたのこと学校でほめられてびっくりした」なんて言われて、嬉しそうにされると、余計に頑張ってしまう。先生が「○○子はいいこだね」なんて言われるとよけいに。そのせいで家に帰り着くとぐったりします。親に当たります。一人でいたくなります。そうやってバランスをとっているのです。大人は、いい子がおかしなことをすると「あなたがそんな子だとは思わなかったわ」と言ったりする。そうするとますます子どもは他人が持った、親の持った、私のイメージを崩さないように頑張ってしまったりするのかもしれません。

大人は子どもに仲良くしなさいというけれど、大人は大人の世界でどうなのでしょうか。職場で気に入らない人がいて嫌味を言う人もいるし、子どもの世界と同じくいじめなんかもあったりする。みんなが心から仲良しな会社や社会なんてめったにないだろうと思います。子どもに人の悪口いっちゃだめといいながら「あの人は嫌い」なんてお父さんにグチをいったりする。グチをいうなとは言わないまでも「嫌い」といいながら、町で会うと、さもいつもお世話になってます調に満面の笑顔で「あら、こんにちわ」とか、似合わない服をみても「あら、ステキ!」なんていって、その人が去っていくとイヤ〜な顔をしたりする。矛盾で満ちあふれているから混乱する。嫌いな人に向かって、意見が違っていたら「オレはこう思うけどな」とか「私はこうだけどね」みたいなやりとりをめんどくさがってしない。事実私もそういうことが苦手。でもこの部分は認めたくないけど、あそこは好きだなぐらいな関係にならなれる気がする。そうするとグッと楽になる。

五味さんの言っていることで、これは分かるなあってことと、そうでない部分もあったりする。だけど「大人問題」には、五味さんの感性が小気味よくちりばめられていて、時には「ほほ〜っ」とか「うーむ」とか「なかなか」とか「そうそう」「そうかな?私だったらこうだな」とか「ニヤリっ」として読み終えた。ついでにいうとなんだか肩の力がす〜っとぬけたという感じだろうか。これからの人生も楽しいな、なんて気分が良くなった。(文:やぎ)