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出会いに学び、老いに成長する |
日野原重明/著 |
講談社 |
私は数年前、祖母を癌で亡くした。今、癌で命をおとしていく人は、本当に沢山いる。私は今まで身近な人たちの死に立ち会ったことがなかった。その闘病中に祖母が読んで、私にも読んでみてとすすめてくれた本がこの本だった。この本は長い間患者と共に歩んできた病院の先生によるエッセイである。人は辛いときに助けを求める。
十代のころの私は小さな事にも悩みいとも簡単に心のどこかで「死にたい」と思っていた時期があった。自分は役にたつ人間なのだろうかと真剣になやんでいた。二十代の前半までそれは続き、一人暮らしの家に帰ってしょっちゅう泣いていた。私は今、死というものは恐くない。悔いがないように生きているからといえば聞こえがいいが、自分の人生を否定しなくなってから強くなった気がする。私はあのとき祖母の手から渡されたこの本を結局いままで読めずにいた。それは祖母が近いうちにこの世からいなくなるのを認めたくなかったからであり、よくある医者と患者とのやりとり信仰を持って救われた楽になった、幸せになったという本をいつくか目にしてきたことがあったり、そういったやりとりがあまり好きになれなかったからに他ならない。ふと今になってこの本を読み始めたとき本のカバーにこの本を購入した日が祖母の字で記されているのを目にした。祖母はどんな思いでこの本を読んだのだろうかと知りたくなった。
この本の構成は大きく3つにわかれている。「学びの日々」「患者との出会いに学ぶ」「いのちの質を高めるということ」の3つである。その中でいつくかの有名な人たちの言葉を引用している。長い文章を読むよりもむしろ短い言葉の中に真実があるのを感じた。祖母は病気をする前あまり自分の死を怖がっていなかった。自分は年寄りだから順番がくればいつか死ぬとさえ思っていた。しかし実際は違っていた気がする。それは自由が奪われ病院に入るということから逃避したいと思ったのか、それとも死ぬこと自体が間近になって恐くなったのか、すでに祖母亡き今、誰もその真相は分からない。人間死を間近に感じるとき長々とした慰めの言葉なんかはいらないのだと思う。私は今生きているが、この本の中の言葉が胸にストンと入ってきた。その引用は多岐にわたる。時には「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」(ロバート・フルガム著)からだったり、サン=テグジュペリの言葉だったり、ヘルマン・ヘッセの言葉だったり、ウィリアム・ワーズワースの詩であったりするのだ。一人の人の言葉ではないのだけれど、著者の日野原氏の気持ちがなんだか伝わるような気持ちになった。時に癌は若い人たちの命をも蝕む。ある若い夫婦の会話が記されている。
妻「私は若くして死んじゃうけど、天国に行けたら私はまだ若いから、誰かと結婚するかもしれないわよ」
夫「もし、僕も若くして死ぬようなはめになり、天国で君に会ったらどうする?」
妻「あなたおばかさんね」と彼女は微笑んだ。(本文より抜粋)
なんて死に向かいながらもユーモアのセンスを持ち合わせた人たちなのだろうか。と思った。彼は彼女の看護のために仕事をいったん離れ無期限で彼女の最後まで一緒いることを選んだ。そう彼に決心させたのは何か?本文の中でこう答えている。
「今でないとできないことは何かと自問し…」と続く。人によって今しかできないことは違うと思う。彼は結果的に今を失って、彼女を愛する機会はまたとないと思ったのだという。こういった言葉を聞いて誰もができる選択ではない。双方の気持ちがあるとき必ずしも上の夫婦のような行動が全てではないと思う。だけどいい話だなあと思う。病気だけではない。人はいつどこで命を落とすかわからないものだ。「一期一会」ということを考え、しばらく離れていた祖母と久しぶりに再会したような気分にさせられた本であった。祖母がこの本を読んで少しは楽な気持ちになったのか?しかし疑いようもなく今私のこの手に握られている本は祖母が私自身に「読んでみて!」とすすめてくれた最初で最後の本なのだ。私が感じたことの一部でも共有できていたらうれしい。(あーとっても個人的になってしまったことお許し下さい)(文:やぎ) |
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