王様の耳はロバの耳 2000.12
〜乾燥する空気に注意!〜
2000年12月26日
 
『パイプのけむり』
団伊玖磨の随筆集の書名だが、これまで「続パイプのけむり」「続々パイプのけむり」また、またまた、まだ、まだまだ…等、いろいろな言葉を使って続いてきたが「さよならパイプのけむり」でおしまいになった。「アサヒグラフ」がなくなるために連載がおわってしまい、したがって、本もこれ以上は出てこられないというわけである。最近は言葉につまって「暮れてもパイプのけむり」とかかなり苦しくなっていたが、何事にも終わりはあるもので「さよならパイプのけむり」となった。
この随筆団さんが健康な限りは続くものと思っていただけに分からないものだ。寅さん映画とちがっていくら年を重ねても随筆を書き続けることは可能だったのに。(宮)

『来年の抱負』

今から初夢をみるためのイメージトレーニングをしている。「一ふじ二たか三なすび」を念仏のように唱え。(京)


『年賀状』

年賀状は、絵柄は手書き、宛名は筆ペンをモットーに、毎年丹念に書き続けてきた。今年もその姿勢は崩さないが、せめて年内に書くように努める。そして、お年玉ハガキを使わないかわりに(あの独特のデザインが嫌い)、お年玉切手を貼るという粋な計らいをみせようと思う。と意気込んで郵便局に行ったらどこも売り切れ。すでに11月から売り出されていたという。どこに行っても、80円のお年玉切手はまだたくさんあるんですけどねと言われる。一瞬、なんで80円切手?と思ったが、別にハガキで出さなきゃいけない理由はないのでつっこまない。しかし、出鼻をくじかれた。ちくしょぉ。ぎりぎりまで郵便局を梯子しようとまだ諦めないが、それにしても、80円切手たくさん用意するぐらいなら、もっと50円切手つくっといてくれてもいいのにと、今年最後の不満を赤いポストにぶつけた。(かわら)


『帰省ラッシュの中へ』
年末年始は九州に帰省予定。この時期はどの交通も混雑するために飛行機のチケットを予約するのも一苦労。しかも出発の2ヶ月前でありながら便を選べないという混雑ぶり。少しでも交通費を安くあげたいがために便を選べなくてもガマンガマン。
多分、年始はまたまた民族大移動の為、家にたどり着いたらグッタリ&ボーッとしているだろう。(予想)(リュウ)

『もうすぐ21世紀』
といっても、ごく普通に過ごしている私。ちょっと前まで、「2000年」から21世紀だと思ってたくせに、今更「20世紀最後の○○っ!!」というのも恥ずかしい。こんな私は、きっといつもと変わらない年末、年始を過ごすでしょう。
でも、「20世紀なし」の今後だけは気になります。(みなりん)

『サンタクロース』
今年もクリスマスがやってきた。私は毎年プレゼントをサンタクロースにお願いしている。そのプレゼントは、叶うこともあれば、叶わなかったけれどうれしい贈り物だったこともあった。しかし去年はクリスマスを過ぎてもその贈り物が届かなかった。サンタクロースも大変なのだろう。不況のこの時代、どの職種にも(サンタの世界にも)不況の嵐は吹き荒れたのだろう。
まず優先させられるのはこどもなのだ。こどもは誰でも幸せになる権利があるのだ。今年30才にもなってしまった私にはサンタクロースは来なくて当然なのだ。今年は夫婦で金額を決めお互いに贈り物をすることに決めた。プレゼントというのはすごく難しい。私は基準を自分の気に入った物と決めているので、ひとまず気に入られようと気に入られまいと買ったときに幸せな満たされた気持ちになる。相手が「絶対」喜ぶものを探すのは大変だ。その人に似合う物、好きそうなものを選ぶ基本は守るようにしているのだが…。
クリスマスの前の日に夫のものは勝手に私が選び、私がほしいものは一緒に探しにいった。我が家には毛布が3枚あるのだが、一枚はすごく古くて臭くて重い。もう一枚は古く薄くて寒い。唯一使える毛布は一枚で、ダブル用で温かくて肌触りがサイコーなので「高級毛布」と呼び2人で仲良く使っていた。しかし、一人が動くと隙間ができて寒いのでどうしてももう一枚ほしいと数年間言い続けていたのだ。だったらすぐに買えばいいものの、いつも気付くと冬が終わっていた。念願叶って今年私専用の毛布をプレゼントとして買ってもらった。早速使ってみるとすごく使い心地がいい。肌触りがいい。柄もいい。自分だけの毛布にくるまった。
しかし長年使っていた毛布は大きくて使っているうちにフィット感が生まれてきていたようだ。新しい毛布にくるまっているとなんだかしっくりこない。朝方おきるとなぜか新しい毛布は足下にけり下げられ、いつもの毛布にくるまって眠っている自分がいた。せっかく買った毛布なのに…。これからちゃんと私の体にフィットする毛布になってゆくのだろうか。そんなことをしている間も、イブの夜、ずーっと働き続けたサンタクロースはちゃんとこどもたちにプレゼントを送り届けていたのだろう。(やぎ)
2000年12月19日
『無我の境地』
坐禅を組んでみた。といってもたいした理由があってのことではない。何も考えない時間、考えないように純粋に努力できる時間が欲しかった。
現代の私の生活で、おそらく大多数の人にあてはまるだろうが、意識的にものを考えない時間というのは、ありえないのではないだろうか。睡眠中をのぞいて意識はつねに働いている。たとえ、はたからはぼーっとしているだけに見えていても。
しかし何も考えないというのは思ったより難しく、そのためにわざわざ条件がそろった場所を訪れたにもかかわらず、なかなか集中できなかった。実際、その日のメニューは四十分二セットという初心者には少々しんどいメニューであった。
はじめの四十分は、足が痺れたり、かすかなエンジン音や扉の閉まる音が気になったり、目をつぶるものと誤解していたのでそのまま眠りに入ってしまったりとさんざんだった。しかし後半四十分は、あの姿勢にも身体がだいぶなれ(結跏趺坐は無理なので、片方の足だけのせていた)、雑音もさほど気にならなくなった。無我の境地には遙かにおよばないが、時間の感覚は確かに消えた。そして二セット終わったあとは、なにやらすっきりした気分になっていた。これはくせになるかもしれない。案外坐禅体質な自分を発見してしまった。(京)

『かっこいい大人』

昔から私は大人になりたいと思っていた。こどものままでいたいと思ったことは一度もない。それはいつでも私の心の中に「いいな」とか「ステキだな」と思える人生の先輩がいたからだと思う。そして年をとるのはいいもんだと思った。顔が美人だったり美男子だったりしなくてもなんだか光り輝いている人から目をそらせなくなる瞬間があって、そういう人から私はいつも力をもらっている。それはミュージシャンだったり、身近な人だったり、テレビにでてくる人だったり様々だ。
先週末に私は武道館で矢沢永吉のライブを見てきた。彼はすごいミュージシャンだと思った。彼の歌声ですごく気分がよくなった。それは彼の歌として発した魂が私の中で同じ息をしたからだろうか。最近新しい曲も聴いていないのに、私は飽きることなくライブを心から楽しんだ。彼はもういいおじさんなのだけど、元気に好きなことをして生きている。このおじさんは(ファンの人に怒られそうだが)今の若者ミュージシャンよりも元気だったりしてと密かに思った。会場の一人一人が一つになったような気分を味わった久しぶりの楽しいライブだった。来年もまた行こうと心に誓う。そしてこんなカッコイイ大人に私もなりたいと思うのだった。(やぎ)


『サンタさぁーん』

コートが欲しい、靴が欲しい、MDコンポも欲しい。
新しいフライパンとちゃんと切れる包丁も欲しい。プラスチックじゃないすり鉢もほしい。
枕カバーも穴だらけ…欲しい。
焼き肉、しゃぶしゃぶ、お寿司が動けなくなるほど食べたいなぁ。(←食事券でOKよ!)
ものすごーくおおきな靴下用意して、待ってるからねぇっっ!!(みなりん)


『年末年始の過ごし方』
これから年末にかけて、特別番組ばかり続くのだろうなぁ。「20世紀の〜」とか「21世紀に〜」「今世紀最後の〜」等々とにかく100年に1度ということでなんでもかんでもというものばかり。内容は特に変化もなくいままでの総集編みたいな物ばかりでだらだらしている。
毎年、年末年始にテレビを見ることほど時間を過ごしてから「もったいない」と思ってしまうものはない。
でもそのおかげ(?)で家で動かずにテレビでも見てたまにはゆっくり体を休めることができるのでしょうね。(リュウ)

『カラオケ』
約4年ぶりにカラオケボックスに行った。私の中で、カラオケというのはすっかり風化し、消え失せていたものだった。もともと人前で歌うのが嫌い。色んな人が飲んで、騒ぐ、あの狭い部屋にこもるのが嫌い。それでも学生の頃は友人とのつきあいで、よくカラオケに行った。しかし、若者がのれるような流行歌なんか歌えない。「夜来香」を歌ったら、誰ものれない。「蘇州夜曲」なんか歌った日にはみんなひいた。私は昭和50年の生まれ。同年代で満州国のスター李香蘭を誰が知るだろう。だが、世の中には、同年代でも趣味を同じくする人がいた。しかも、同じ会社で。私が「夜来香」を歌い、その人は「銀座のカンカン娘」を歌った。二人とものった。ミーシャやら宇多田ヒカルなどがまったく出てこないあたり実に居心地がいい。最後は美空ひばりでも歌おうかと思ったぐらいだ。この日歌った曲目を見ると誰も二人が20代とは思えない。でも、今までになく素直に楽しめるカラオケだった。きらいきらいと思っていたが、意外なところで、カラオケにおもしろさを見出した。カラオケは趣味の合う人と、落ち着いて歌うのがいいのかもしれない。(かわら)
2000年12月12日
『新宿のイルミネーション』
12月初旬、新宿南口の紀伊國屋へ行ったらあたりはクリスマスのイルミネーションで輝いている。夕方で、大勢の人々が楽しそうに歩いている。あたりの景色を見ると建物も室内の照明だけでなく外壁にも電飾がほどこされ、それはきらびやかである。道行く人々は美しく着飾り、思わず平和で幸福な眺めだなあと感じ入った。(宮)

『一目ぼれ』

恋愛に関しては全く経験がないが、買い物に関してはほとんどが「一目会ったその日から〜」の出逢い方である。
第一印象が大切なのは何も人間ばかりではないのだ。心に何か迷いがあるのに購入した物に関しては、ほとんどがすぐ飽きてしまったり使わなくなってしまったりとあまり最後まで大切に使えなくなってしまう。
だからと言うわけではないが私の買い物は至ってシンプル。何か物を買いにでかけるというよりは、一目ぼれの物に出会えることを楽しみにでかけるといった方が合っているような気がする。
もちろんそういった一目ぼれが頻繁に起こるわけではないけどね…。(リュウ)


『クリスマスに思う』

路上で違法販売をしていたサンタクロースが、市民にとがめられ、乱闘さわぎとなり、あえなく逮捕。それを目の当たりにしていた子どもたちが、プレゼントを貰えなくなると大騒ぎしたというおかしな事件がロンドンであったらしい。夢と現実、子ども世界と大人世界のぶつかりがなんとも妙で、ほほえましくもあり、子どもたちの騒ぐ姿が浮かんだ。私は、サンタクロースをいくつまで信じていただろうか。7歳頃までだったか。サンタクロースをこの目で見ようと、布団にじっともぐり、枕元にプレゼントが置かれるのを見た記憶がある。イブの夜にそんな演出をするなんて、親も若かった。クリスマスツリーにクリスマスケーキ、普段よりちょっと豪勢な夕食。クリスマスはお正月以上に楽しみだった。私にもそんな無垢な頃があった。今となっては、そんなしちめんどくさいことやらない。考えてみれば、他人の誕生日である。恋人と甘く過ごす大人的手段もあるが、なんだかはき違えているし、お金もかかるし、なおさらめんどくさい。と、大人になると純粋な気持ちもすっかり消え失せてしまうのだが、ま、いつの時代でも、せめて子どもには純粋にクリスマスを楽しむ気持ちをもっていてもらいたいものだ。(かわら)


『跳ねる! 電話』
電話の受信を振動で知らせるアイデアを閃いたのはどういう人なのだろう。そばにある携帯電話を見るたびに、つくづく感心する。
私は携帯電話を常時マナーモードにしてアパートや会社の抽出に入れておく。勤務時間中は基本的に電源を切っておくが、ときどき忘れてしまう。すると抽出が一人でにカタカタとなり、度肝を抜かれることがある。深夜の事務所に一人きりで残業しているときなど、おもわず叫んでしまったこともある。十年前の日本人がみたら。間違いなくポルターガイストだとおもうだろう。
近未来、さらに進化した携帯電話は、ひとりで飛んだり跳ねたりするだろう。アラームに設定しておけば、受信音のかわりにベッドをこづき回して起こしてくれる……。それとも、聴覚、視覚、触覚はおさえたから、嗅覚や味覚に訴えた機能がくわわるのかもしれない。(京)
2000年12月 5日
『月に吠える』
電話口で朔北社の朔を説明する際、はじめに「萩原朔太郎の朔です」というが、たいていの人につうじない。そりゃそうだろう。いきなり電話口で萩原朔太郎なんていわれてもなあ。じゃあ言わなきゃいいのだが、「さかさまの逆という字のしんにゅうを取って、右側にお月さまの月をつけます」というよりかは、なんぼかラクなので、だめもとでも言ってみる。しかし、そのあとほぼ百パーセント「逆という字に…」と説明するはめになる。社名にまつわる隠れた苦労話である。
ところが、このあいだ電話をかけたある出版社の人に「ああ、八朔の朔ですね」といわれ、頭のてっぺんで、プップカプ〜と天使にラッパを吹かれたような感動に襲われた。そうなのだ。八朔の朔でもあるのだ。しかし、そんな説明をしたところで、いま以上に「はあ?」と問い返されることになるだろう。
ちなみに、私はこの朔という字が大好きで、この字に惹かれて会社に履歴書を送ったようなものである。そのうち朔北社が有名になって、電話口で「萩原朔太郎の〜」なんて言わなくても言い日が来ることを祈っている。(祈ってるだけじゃだめか)(京)

『家計簿』

今まで家計簿をつけたことがなかったが、揺れ動く社会情勢の中我が家にもお金をきちんと管理しないと乗り切れないことが判明。書店にて使いやすそうな家計簿を購入した。今まで気付くとお金をなにに使ったかわからないのに、給料日までにあと数千円しかない!!!ピンチ!ってことがままあった。
まあ、うちはおかげさまでお互いの給料日は離れているのでその点では助かるのだが、さすがになにかあったときに蓄えぐらいしておかないと、新宿あたりでM夫婦を見たという情報が流れることになる日も近い。そんなわけで計画的にお金を使うことにきめたのだ。実はあきっぽい性格なのでこの家計簿いつまで続けられるのか心配ではあるが…いつか庭付きの小さな家に住むのでも夢見ましょうか。(やぎ)


『こたつ』

ここのところの朝の冷え込みに耐えられずこたつを出した。基本的に暖房器具(エアコン)は点けない予定なので唯一の暖房器具となる。
というのも数年前にエアコンで冬を乗り切ろうとしたが、乾燥のため家族全員がひどい風邪をひいてなかなか完治しなくてひどい目にあってしまったので、冬はエアコンは使わないのが我が家の常識となった。
顔だけ熱くて体は冷えるというのがエアコンやその他の暖房器具の欠点でそれに比べると、やはりこたつは寒いところを丁度いい具合に暖めてくれる。カーペットなども足下からという点ではいいのだが、こたつの上にこたつ布団をかけるというナイスなアイデアには到底及ばない。
などとうんちくを言ったけど結局は日本の冬にはこたつとみかんが一番合っていると毎年冬になるたびに思うのだ。(リュウ)


『マラソンを見よう』
会社の周りの人達は「2時間もじっと見ていられない」と言い、友人達は「あれだけは何が面白いのか理解出来ない」と言うマラソン。私は「2時間ただジィーっと、しかも面白いと思いながらマラソンを見られる」女です。
この間の日曜日の「福岡国際マラソン」で、男子マラソン日本記録が更新されました。シドニーオリンピックのマラソン金メダルの選手を破り優勝、後半バテ気味になりがちな選手と違い、あのスピードある走り、ゴール寸前にはテレビの前ででっかい声を出し、興奮しつつ応援していました(←ひとりで)。優勝した選手は、学生の頃から駅伝で走っていて、駅伝好きの我が家では、みんなが知っている。他人事とは思えず、まるで自分のことのように喜んでしまえるのです。こういう楽しみ方もあるのだ、マラソンって。
マラソンはいいよぉ。おもしろいので、みんな見よう。そして、更にマラソン観戦を楽しむために、駅伝を見よう。まずは、2001年お正月、実業団駅伝、箱根駅伝あたりから見てみない?(みなりん)

『悪事』
信用保証協会の融資あっせんにかかわる、議員秘書の逮捕事件がニュースで繰り返し報じられている。
私はなぜ議員秘書のあっせんがあったのか疑問を持った。というのは、数年前の銀行の貸し渋り対策として実施された中小企業救済のための特別融資制度(30兆円という巨額の資金が用意された)は、所定の簡単な手続きをすれば、ほとんど自動的に融資が実行されていたからである。何も議員の力を借りる必要がない。
このことを信用金庫の営業マンに話したら、次のようなことを話してくれた。
そもそも議員秘書にあっせんを依頼した企業は経理内容が極端に悪い倒産寸前の会社で、通常ならば融資を受けることができない。そこを、この制度の趣旨を盾にとって強引に融資させる。これを保証協会が認めてしまうと、申し込んだ会社は、もともと返済する能力はもちろん、意志がないから、いわばこれは議員秘書と倒れかかった会社が共謀して国の金をむしり取っているのと同じなのである。であるから、秘書は高額なあっせんの成功の謝礼を当然のごとくもらう。(宮)