王様の耳はロバの耳 2000.11
〜甘栗食べたいな〜
2000年11月28日
『最近あんまり…』
近ごろ心に残る映画をあまり観ていないが、それは忙しさにかまけて私の心が平坦になってしまったからだろうか。ここ二、三年のうちでこれはとおもう映画をあげろといわれたら、たった二本しかないのだ。映画を観たあとはしばらくその世界に浸りきっていた高校生のころの自分がなつかしい。いまなんか館をでたとたん、心がきりかわってるもんなあ。寒いよなあ。…冬だからしょうがないか。
うんと年上の知人が以前、年をとると実生活でたくさん経験を積むから、ちょっとやそっとのことでは感動しなくなる(そうでない人、失礼)と話していた。私は「想像力に年齢は関係ない」と反駁したが、いまとなっては「ちょっぴり、そうかも」とつけくわえてしまいそうだ。はあ(と、ため息)。
なんて話を友人にしたら「前評判をあてにして期待しすぎるからだ」と指摘された。そうかあ。宣伝では、ほんとに、めちゃめちゃ、おもしろそうに見えるんだよなあ。うますぎるよなあ。でも内容とギャップがありすぎて、騙されたような気もするぞ。と、最後は配給会社のせいにする。(京)

『防衛庁を訪れる』

編集作業に資料探しはつきもので、国立、公立図書館、大学図書館、官庁、企業などの史料室と、あらゆるところへ情報集めに奔走する。
こんな仕事でもしてなけりゃ縁がないようなところに行くこともある。防衛庁の戦史史料室もそのひとつ。担当物の調べものにそこを訪れた。軍事国家だった頃の軍の公文書や一連の戦争記録を記した戦史叢書などがここでは閲覧できる。来る人も50〜60代を主に、中には若い人もいた。これらの史料を見ていると、50年前の日本がどんな国だったのか、今の時代と比べると想像を絶する。さて、社に戻ると、防衛庁が話題になっていた。中には、迷彩服の人がほふく前進してたか、なんて声もあがり、ゴルゴ13まがいの話に転がっていった。実際門をくぐるまでは私もそんなことを考えなかったワケじゃないが、行ってみると貴重な資料を見ることができて面白いところではある。(かわら)


『加藤さん』

「100%勝ちます」という言い方は、いかにも地に足がついていない感じを受けるが結果はその危惧をそのまま裏付けることになった。
しかし、とにかくあれだけきばり戦う意志を表明していたのだから、成功と失敗を含んだいくつかの結果についての予測はあったはずなのに、どうやら事態が自分に都合のよい方向を辿るとばかり考えていた気配である。土日をはさんで、テレビにうつつを抜かしている間に反対派のきびしい多数派工作に自派の数を減らされていった。それにことを始める時点での自派内での根回しが甚だ不十分であった。
このように、いろいろ批判できるが、最後の局面でのご本人と回りの若手議員の涙や、まして「名誉ある撤退」発言など見るに耐えなかった。
恂々と道理を説き議場に出て内閣不信任案賛成の票を投じるべきだと進言する人はいなかったのかと思う。発言の重さについての感覚が全く欠如している。(宮)


『書名は日々変化する』
社内にいると、書店さんから、電話やファックスが入る。普段は普通に注文を受けるのだが、たまーに楽しい注文が来ることがある。その楽しい注文は書名変化系の注文だ。つまり似ているけれどびみょーに違う書名で注文してくる場合、こちらは大まじめな対応にあわせなければならないのと、どのタイミングで正確な書名をつたえたらいいのか少し悩むのと、笑いをこらえるのを同時にしなければならず辛いときがある。ちょっとだけ違う場合は、ままあるのだが、ツボにはまる書名に当たったときの喜びといったらない。最近では「ちびけちゃんにもやらせて!」という書名が「ちびけんちゃんにもやらせて!」や「ちびすけちゃんにもやらせて!」になっていたり、「エリセラさんご」が「エリセラさんぼ」になっていたり「うん、そうなんだ!シリーズ」が「うそ、そうなんだ!シリーズ」になっているということがあった。そんなときはおおいにみんなで楽しむ。忙しいなかそういう憩いがあるというのはすごく貴重なことである。でも改めて書いてみるとなーんにも面白くなかったりして…(やぎ)

『秋の味覚』
子供の頃、秋になると必ず近くの山に、「きのこ採り」に行きました。「くりたけ」(栗の木の下に生えている)や「あわたけ」(紫色をしている)等という、一般的にはあまり知られていないキノコですが、はりきって採っていました。楽しかったなあ・・・・。
もう秋も終わりですが、近年、「秋」を感じることが少なくなりました。よく考えれば、それは「秋」だけに限ったことだけではなく、全ての季節に言えることで、今の私はカレンダー通りに季節を認識しているだけなのかもしれません。そう考えると淋しくなります。
そうだな、来年の春は、山菜採りにでも出掛けて、季節を肌で感じようかなぁ。(みなりん)

『次のシナリオは』
今、最も政治が面白く感じられるのは長野だろう。長野県出身の私は少しひいき目に見ている部分もあるが、それを差し引いたとしても毎回何が起こるのか分からないというシナリオのない展開をいつも楽しみにしている。
このコーナーでもおなじみのMも同郷なので物心ついたときから吉村知事だったという話はお互いに知っている。その頃はもちろん政治の「せ」の字も興味がなく、いつの間にかいろいろな公共事業が決まっていることが多かった。長野オリンピックに関する公共事業に関しては賛否両論で、新幹線や高速道路が通ることによるデメリットが、お祭りムードだったオリンピックの後大きく浮き彫りとなっている。
今までなあなあで勝手に決めてきた問題も、田中新知事のおかげで表(メディア)に出ることにより、より身近に自分の問題として県民1人1人が考えるいい機会のように感じられる。
つい最近の内閣不信任案の茶番劇に比べて実に分かりやすいなぁ…。(リュウ)
2000年11月21日
『こどもの本を読む大人』
仕事柄、書店や図書館の児童書コーナーをよく訪れる。小さい子に交じって絵本を漁っていると、たまに子どもにいぶかしげに見られることがある。先日も、図書館で、子ども用の椅子に腰をかけて(よくつぶれなかったが)絵本を読んでいると、隣の子どもがじっと見つめる。「なんと老けた子どもじゃのう」と思っていたのだろうか。孫をつれたおじいさんにもいぶかしげに見られたことがあった。「いい大人が絵本しか読めんのか」と思っていたのにちがいない。逆に同年代くらいのお母さんと交じっていると「あ、子どもに読ませるために探しているのね」という空気が漂う。確かに児童書コーナーで本を読みふける大人なんてほとんどいない。でも、大人になってから子どもの本を読み返すと、意外と多くのものを得ることができる。児童書でも絵本でも、良質な本や文章には世代を越えて読み手を惹きつける力がある。
子どもの時だけに読むものと隔たりをもたず、いつまでも、児童書や絵本を身近に置いておきたいと思うようになってきた。(かわら)

『その魚凶暴につき…』

グアムへ行き、はじめてシュノーケリングなるものをした。南の海の魚というものは美しい。夢中になって見ていたらなぜか立ち上がったときに足に何かに当たったけっこうな衝撃だ。名前はわすれてしまったのだが、魚らしい。みると一つのさんごのまわりに1ぴきはその魚がいる。泳いでいるところでは攻撃してこないくせに、立ち止まっていたりすると突然向かってくる。一度攻撃されると臆病になる。彼らの姿が見えると、いちもくさんに逃げる。特に陸に近くなると他の魚がいなくなりその魚があちこちに静かに潜んでいる。私は溺れそうになりながら、陸にたどり着いた。魚にもいろんな性格があるらしいから気をつけないといけないと思い知ったはじめてのシュノーケリングであった。(やぎ)


『食べ過ぎもよくない…』

朝、豆乳を飲み、お昼に豆腐を食べ、夕食に納豆と大豆ハンバーグを食べる。
自分ではあまり深く考えていませんでしたが、どうやら私は大豆好きのようです。
その中でも今、豆乳にはまっています。豆乳を嫌いな人は結構多いけれども、最近はいろんな味のモノがあるし、最近出た「豆牛乳」という豆乳と牛乳を合わせたモノがメチャメチャおいしい。牛乳はあまり好きではない私も、この二つのブレンドはおいしくてしょうがない。しかぁし、「抹茶」「コーヒー」や「ロイヤル紅茶」なんていう新しいモノまで、結構いろんなスーパーに置かれているのだが、「牛豆乳」はうちの近辺では1軒しか置いていない。悲しい・・・。そこまでして飲みたい「豆牛乳」、豆乳嫌いの人も是非一度ためしてみて下さい。(みなりん)


『いくらおいしいものでも…ね』
つい最近、知り合いから冷凍庫に入りきらないくらいどっちゃりお肉を頂きました。牛肉にはじまり豚、鳥とミンチしたものやら薄切りなどた〜くさん!
しかしながら腸が欧米人より長いと言われる日本人。そうそうたくさんの肉を消費できるわけもなく、少しずつ野菜に織り交ぜながら食べています。
最近何かと話題(私の中で)の「スローフード」。肉などのすぐエネルギーになる食材ではなく、穀物などの持続性のある食べ物を勧めているらしい。(ファーストフードの逆って意味もあるんだろうけど)毎日肉料理を欠かすことの無くなってしまったこのごろは特に心に響いてくる言葉となった。(リュウ)
2000年11月14日
『消えた銭湯』
仕事場近くの銭湯が消えてしまった。旧甲州街道に面した古い商店街の中にあったが、先日通りかかったらすっぽりなくなっていた。更地となったその跡は、意外にも狭く、ここにあの大きなお風呂がふたつもあったのかなと思わせるほどの狭さだった。一度だけ仕事帰りに寄ったことがあり、近所のおばあちゃんたちと裸のおつきあいをした。幼い頃過ごした家は風呂がなく、銭湯に良く通ったことを体が覚えてしまっているのか、この歳になっても銭湯に行くのが楽しい。広い浴槽にのびのびつかるのも実に気持ちいい。都内での銭湯が年々減り続けている。芦花公園の銭湯もそのひとつだろうか。それともまた新しくなった銭湯が建つのだろうか。家のお風呂も人目を気にせずゆっくりできるが、高い天井、大きな浴槽、あの開放感はやはり銭湯でしか味わえない。(かわら)

『冬蜂の……』

たびたびごきぶりの話題で申しわけないのだが、先日、季節はずれのごきぶりをアパートの周辺で見かけ、書かずにはいられなくなった。過ぎし日のあの元気はどこへやら、彼はよたよたとコンクリートの上をはいまわっていた。おそらく明日の朝には死ぬだろう。村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」という句を「ごきぶりの…」と置きかえたら、彼の現在の状況にあてはまるなあ、などと考えつつ眺めていたら、ふいに元気になって、かさかさとどこかへ逃げていってしまった。なんだかだまされたような気がする。(京)


『図書館データ』

図書館所蔵資料整理、それもコンピュータ利用のためのデータ作りを続けてきた。近年は普通の資料、つまり一般閲覧用図書のデータ作成はほぼ終わりに近づいて、その他の特殊な資料の仕事がふえている。たとえば著名な学者の蔵書の整理(亡くなって、遺族が図書館に寄贈したもの)などである。これにもいろいろあるが、なかには、あるジャンルの資料がかなり網羅的に集められたものがある。とても貴重な資料だと思うが、図書館はこの種の資料について、個別の判断をするよりは、なげやりな態度で整理に当たっていると感じることがある。一般閲覧用図書の資料に傾ける情熱をこれらの特殊な資料に傾けてほしいと思う。そうするに価する貴重なコレクションにときどきぶつかるのである。
いま、ある高名な美術評論家の集めた展覧会のカタログを整理しているが、数千点にのぼる展覧会のカタログは、仕事をしながらながめるだけでも興味深い。データが完成したら、いろいろな形で集計して分析できる。1人の画家の展覧会が、どれくらいの回数どこの地域で開かれたのかなど、ちょっと考えただけでも面白そうだ。
ところがこのデータは、極力経費をかけないで作ることになっていて、各展覧会のちがいがはっきり分かるとは限らない形になっている。この種の資料こそいろいろな注記を付けた丁寧なデータが威力を発揮すると思うのだが。
資料の内容と使われ方、経費のことなど整理する対象によって個別に考えるべき事だが、作業現場で感じていることとは別の判断に基づいて仕事をしなければならないことが多いのは、ちょっと残念な気がする。(宮)


『到来』
早いもので今年もアッという間に年末、もうそろそろ忘年会シーズンです。「忘年会」はいいのですが、そこで発生する酔っぱらい(老若男女問いません)が、私は大大大嫌いなのです。
普通の酔っぱらい程度ならいいのですが、明らかにちどり足で、我を忘れていそうな皆さん、自分が飲める範囲のお酒の量を知っていますか?知らない人は飲まないようにしましょう。そして、もし万が一飲んだとしても、絶対電車に乗ってくれるなと声を大にして言いたいのです。普段の週末でも酔っぱらい発生率は高く、ベロンベロンに酔っぱらい、真っ青な顔して、具合が悪そうで今にも……そんなものを見たらこっちの方が具合悪くなります。また、そういう人を寄せ付けるオーラが私にはあるらしく、遭遇率も周りの誰よりもはるかに多いのです。そんなわけで今の私は、酔っぱらいの乗っていそうな時間帯の電車には乗れません。なので、何時間もかけて家まで歩いちゃう事も多々あります。
お酒を飲んだ人は乗れない電車、泥酔した人しか乗らない電車(人のふりみて我が身を…)等々できたらいいのにな。(みなりん)

『今年はどうしよう?』

11月に入ってからちらほらと「年賀ハガキ発売中!」の幟を見かける。もうそんな季節なんですね。年賀状と言えば我が家では毎年いろいろな工夫を凝らして作成しているのだが、そろそろ面倒にもなっている。周りにあまりにも「今年も期待しているよ」と期待されるとプレッシャーになってくる。
頭の中で描いているものを作品という形で表現することの難しさを痛感しつつまた新たな年を迎えるための準備をするのだ。(リュウ)

2000年11月 7日
『小さい電話』
どこでもピリピリなる「小さい電話」は私の天敵ともいえるものだったが、姉の交通事故をきっかけに、契約することになった。何かことが起こったとき、家の電話では対応しきれないことが、判明したからだ。もっとも、私の家の電話が壊れていたのだけれど。
しかし、手に入れたはいいが、いったい、いつ使えばいいのだろう? 電車の中は使用禁止だし、飲食店では使いづらいし、勤務時間は当然使用すべきではないし、家にいるときは家の電話があるし。普通に歩いているだけで危なっかしい私が、電話しながら道っぱたを歩いたりしたら、まちがいなく電柱にぶつかるか、車に引かれるだろう。なので、私の小さい電話は、新品のままアパートの机のひきだしの中に眠っている。すやすや。(京)

『魔が差す』

近年考古学の発見が相つぎ、日本の旧石器時代のことが随分鮮明に語られるようになってきた。考古学上の新発見などそうたびたびあるものではないと思っていただけに、新発見のニュースを見るたびに時間の経過とともに歴史が塗り変えられるということを改めて実感していた。
ところが、石器を埋めて掘り出すという工作の発覚というこの度の大ニュースである。複雑な感慨を持たざるをえないが、報じられた事柄の中に近頃の発掘には多数のボランティアの人々の協力があり、その人々の期待が大きなプレッシャーになっていたということがあった。これには現場の雰囲気というものを想像して、プレッシャーを充分に理解できるにしても、だからといって作りごとまでしなくてもと思うのだが、「魔が差した」という本人の弁明に、そのあたりの心理の動きが言いあらわされている。どんな状況におかれても、平常な心持ち、冷静な意識を持ち続けることの難しさであろう。(宮)


『たぬき論』

夜道を歩いていたら狸と出くわした。民家の庭先からぽてぽてと出てきて、道路脇の下水溝に顔をつっこんでいる。はじめずいぶん太ったネコだなと眺めていたが、どうも顔が細長い。暗がりでよく見えないが、体もやけに茶色っぽい。この周辺たまに蛇やネズミの死骸を見かけるが、狸を見たのは初めてだった。同じ道で露出狂に出くわしたときぐらいびっくりした。どこかで飼われているのかもよと、家族は言っていたが、狸を飼う・・・、じゃあこれがイノシシでもどこかで飼っているのよという解釈でいいのだろうか。ワニが沼にいてほしいのと同様、狸も里山にいて、人をだましたり、人間に食われそうになったりと、人と距離をおいてこそ狸である。と、勝手に狸論を打ち立て熱くなるのだが、人里に姿を見せるほど、実際、森や林が減り、食糧も少なくなっているのかもしれない。(かわら)


『チョコエッグ』
最近「チョコエッグ」なるものにはまっている。卵形のチョコのなかにおもちゃが入っているという商品だ。今回は日本の動物のコレクションだ。
私は学生いらい何かにはまることがなかった。ドラマにしても、一回見逃したぐらいなんでもないし、ぜったい見たいテレビもなければ、この音楽がなければ生きて行けないというものもなにもない。何かにはまっている人をみては羨望の眼差しで見ていた。好きなものがあるというのはいいことだ。その私が久々にはまったのがチョコエッグの動物フィギアを集めることだったのだ。
きっかけは「BE-PAL」(小学館刊)というアウトドアの雑誌の特集(?)だった。すでにこのシリーズは第4弾ですでに前にいろんなコレクションがあったのを知って残念な思いでいっぱいだ。こういうおまけがついたお菓子というのは中になにが入っているか分からないというワクワク感がある。そのワクワクする気持ちを子どものころのように感じたのだ。これはもう集めるしかないでしょう。今第4弾の24種類のうち半分の12種類が集まった。いつになったら全部あつまるのかわからないところがいい。たまに同じものが出てきてしまうのもいい。よけいやる気になってしまうのだ。そしてチョコエッグ熱に犯されながら今日も仕事をするの私なのだった。(やぎ)

『文明についていけない人々』

先日10年ぶりくらいに電話機を買い換えることになった。コードレスが壊れてから早4年、電話に出るのもおっくうになり離れていても電話に出られたらという安易な気持ちからだった。久しぶりに大型電気店に出かけていくともうすでに電話は「家電」の部類ではなかった。「マルチメディア」の階で、しかも近年のFAX人気に押されてなのか隅っこの方に追いやられていた。
入ってすぐのど真ん中にはPCがこれでもかと言わんばかりに並んでいる。基本的にはコードレスが1台付いていて他の機能は留守番電話くらいと思っていたのに、なんだかんだといろいろな機能が付いた電話しか置いていなかった。
私の隣で商品説明を受けていたおばさんが「こんなにたくさん機能が付いたのはいらないのよね。シンプルで使いやすいのなら。」とぶつぶつと言っていた。
でも、人間とは変なものでたくさん機能が付いているほど「お得」な気分になるのだ。あれもできるこれもできると想像だけ膨らませて満足してしまう。結局さんざん迷ったあげくにコードレス付き・電話でメールが送れるらしい電話機を買い家に帰ってからは、説明書の分厚さに嫌気がさしてメールどころではない…現在。(リュウ)


何やら考え中。(みなりん)