王様の耳はロバの耳 2000.3
〜まだお花見にはほど遠い寒さの中ですが…〜
2000年3月28日
『誰のための本なんだろう』
最近、新刊のちらしを引っさげて、久々に書店営業に繰り出した。担当者が食事で不在だったので、児童書売り場をウロウロしていたら、久々に親子で本を選んでいる光景に出くわした。何喰わぬ顔で、別の本をみながら、実は会話を耳を大きくして聞いていると、小学1・2年生であろう子どもは、とにかく分厚い本を読みたいらしい。たけどその子の選んだ本は分厚いけれど、何々年生向けと帯に書いてある。「今度何々年生なんだからこれは…ぁ」とか母親に言われている。何年生向けというのはあくまでも目安なのだろうと私は思っている。だけど一般のお母さんたちは書かれている学年を重視してしまう場合が多い。人間の成長というのは人それぞれである。好きな本もそれぞれだ。選ぶときは読みたい本を選ぶのが一番である。だから小学校5年生の子どもや、大人が絵本を読んだっていいのだ。みんなが読んでるから読むだけの本でなく、いいなあ、おもしろいなあ、好きだなあで本が選べるような世の中になればいいなあと思う今日このごろである。自分が自分のために買う本なんだから(やぎ)

『壁の上を歩く』

石畳の道を歩く。石は正方形で一辺は25センチぐらいか。幅25センチの道を私は壁の上のつもりで、25センチの幅をはみ出さないようにして歩く。
スタスタ、結構速いスピードで歩く。本物の壁の上で、両側が50センチぐらい下に地面があると思いながら歩く。50センチなら少しも恐ろしくないが、2メートルあったらどうか。実際は落ちないように随分気を付けて歩くだろう。10メートルもあったら、ほとんど歩けないにちがいない。風がまったくなくてもである。目と体の感覚の問題、あるいは度胸の問題か。
だが、壁にみたてた石畳の上だから、自分の度胸に満足して歩くことができる。
(宮)


『ちいさな発見』

早朝の駅構内のポイント故障で電車の時間が遅れた。京王線のつつじヶ丘駅を過ぎたあたりから、前の電車が詰まってしまい、徐行運転。ぼーっと外を眺めるといつもの風景がゆっくり流れる。線路沿いの民家に目をやるといつもは見過ごしていたものが目に入る。雨戸をばーんと開け放して、部屋でゴロゴロしているおじいちゃんや、朝の掃除にとりかかるお母さんの姿。バケツや鉢植えなど、物でごったがえす狭い裏庭。それぞれの家の様子がよく見える。毎日通っているのに全然目に入らなかったものに気づいたときの小さな驚き。ふいに生活の断片を垣間見たことのおもしろさ。朝の慌ただしい通勤時のはずなのに気持ちにふとしたゆとりが生まれた。遅刻ぎりぎりの電車で呑気なことだが、楽しいひとときだった。(かわら)


『都会ならではの場所』
私のお気に入りの場所・砧公園内に子供用の自転車練習場がある。(ちなみに自転車を借りるのも無料)自転車も補助付き・補助なしを選べて1回20分間、広場みたいな所で自転車を練習することができる。(週末の午後は結構混んでいる)確かに都会だと車の通りも半端じゃないし、自転車置き場が無いような家(集合住宅)だとちょっと自転車を買うのをためらってしまう。ちょっと乗れるようになれば補助なしを買えるし、なんて自分のサイフも考えちゃったりして…。「お金をかけずに手間かける」が我が家の基本方針なのでまだ当分はこの便利な場所で練習させてもらおうと思う。
待つのが嫌いな方は午前中にお出かけ下さい。
(リュウ)
2000年3月22日
『花粉症』
今年は暖冬だったので花粉が大炸裂しているようだ。至る所で見かけるマスクマンたちがそのことを物語っている。私は花粉症ではないのでその苦しみはわからんが、あれはある日突然やってくるものらしい。今はマスクマンたちを見てひそかに「プッ」笑っている私だが、いつか、その中の一人になるときが来るのかもしれない。そうなったら、オプションでサングラスをかけターバンを巻き、真ん中に三日月のマークをつけて歩こう。それとも、そうなる前に杉のない所へ行こうかなあ。(京)

『もう一度』

年度末になって、私の住む南大沢の用地近くの道路工事が始まった。これは必要のない工事だと思う。そもそも人と車が別々に使うように作られているし、キチッと整備されている。そこに、側溝などないのに、あるかの如く、歩道の両端にコンクリートの仕切りをおくために道を掘り返した。なかなかの大工事である。土建会社の為に無理に作りだした工事としか思えない。
せめて、しかるべき場所で共同溝を作る、というような前向きの工事を考えてほしい。
(宮)


『あわただしい春』

5月に引っ越しすることになった。「やっぱり春は新しい生活の始まりなのね。」っな〜んて悠長なことを言っていられなくなってしまった。
とにかくいろいろな手続きが多すぎるのだ。水道、ガス、銀行、免許の住所変更等々…。考えただけでも憂鬱な事が山積みとなっている。
この引っ越しを終えたら「引っ越し大好きの私」だが、当分の間はおとなしくしていようと思う。
(リュウ)

2000年3月14日
『黄土がなくなることはないのか』
春になると黄砂が舞って、空が黄色っぽくなる。もともと春先の空は、かすんでいるが、黄砂はそれをいやましにする。はるか中国の黄土地帯から渡ってくるというのだが、歴史時代に入ってからでも数千年を経て、黄土もずいぶん減ったものだろうと思うが、今年もまた空はたしかに黄色にかすんでいる。
有限の地球という考え方が一般的になってから、自然現象のいろいろについて、これまでと全く同じ感覚では受け取れなくなっているのだが、季節の変化を示す、自然現象を目のあたりにすると、ホッとする。
(宮)

『サイゴンの一番長い日』

先日、朝日新聞を読んでいたら、「この人に会いたい」というコーナーで、近藤紘一さんが取りあげられていた。ジャーナリストといえば、本田勝一さんしか知らなかった学生時代、この人の本に出会ったときは新鮮だった。感情が豊かに表現されているのに、ジャーナリストとしての冷静さが失われていない文章には、これほんとに新聞記者の文章なのかなあと首をかしげた。おまけにユーモアのセンスもある。そして、なによりバランス感覚のすぐれた人だった。
もしあの人が今も生きていたらなんて、考えても仕方のないことだけれど、この人についてだけは考えてしまうのだ。
(京)


『クラゲになった日』

頭痛、腹痛、肩こり、鼻炎の四重苦で、週末はすっかりばてた。一日中家でゴロゴロ。バファリンを飲み、肩にはサロンパスを貼って、朝から晩まで寝巻姿でゴロゴロ。たまに起きても何もする気になれず、クラゲのように寝床からトイレ、食卓へそしてまた寝床へと漂っていた(食欲だけは人並みだった)。結局クラゲ状態は週明けまで続き、仕事を一日休んでようやく復帰。何だかながい休みに感じた。
平日の日中に家にいると時間が止まったような妙な感覚を覚える。一時間がものすごく長く感じられ、いっぽうで気持ちのたががはずれてしまい、せっかくある時間もただただ寝て過ごしてしまう。夜が更ける頃にはなんだかむなしくさびしい気分になる。日頃、外で働いているときは、ただ時間に追われ、休みたい気持ちでいっぱいになるが、いざ休んでしまうと、クラゲになるしかない。これが体調がよければ、話は別だが。
そうなのだ。要はせっかくの休みなのにどこにも行けないのがもどかしいだけなのである。ましてや平日なのに、もったいない!と、サロンパスクラゲは日頃の生活態度を棚に上げて、お門違いもはなはだしい。さて、三重苦は回復したものの肩こりだけが治らない。
この肩こりのいちばんの原因は、曲がった根性によるものだろうとクラゲは少し反省した。
(かわら)


『バレンタインデーなんてなくなればいいのに』
なぜ、今頃バレンタインデーなのかというと、ホワイトデーが近づき、にわかに我が家ではお返しの品物を買うためにデパートを訪れた(もちろん私がもらったわけではありません)。
本来、バレンタインデーとは愛の告白の日として作られた(チョコレート会社の陰謀?)のに今や、義理であげているいる人のなんと多いことか。そのたびごとに何かお返しを考える。もちろん、人から贈り物をもらえるのはうれしいことだけれども、なんだか無駄な感じもある。小学生だったころ私には好きな子がいた。だけど好きだと言えずにいた。バレンタインにのっかって、チョコレートをあげようと、おこずかいをはたいて買ったのに、結局渡せず、自分で食べた記憶がある(空しい…)。いままで私は、バレンタインの愛の告白をせずに生きてきた。義理はやめにして、その時期素直になれるなら、この制度は続けばよし。めんどうだなあと多くの人が思うならやめればいいのにと思う。しかし、恋するかわいい女の子の姿は、なんだが安心するし、見ていて応援したくなる。女は強くなったと言われるが、かわいい部分もちゃんと残っているのだ。こんなことを言っている私は随分ばばあになったのかもしれない。
(やぎ)

『ごめんね、一人で』

土曜日仕事が終わり、いつもより早めに帰ることができた私はちょっとご機嫌でした。普段、帰宅するときは、ほとんどお店も閉まっているのですが、まだ7時前ということもあり、久しぶりに「お買い物でも…」と少し吉祥寺をプラプラしました。
お気に入りのお店で、たった1500円の2枚組Tシャツを買うか、買うまいか20分も悩んだり、880円のスニーカーをやっと買ったり(1週間買うかどうしようか迷った)、常時仕事で行っている書店で児童書の文庫のシリーズを買ったり(担当さんに会うと結構恥ずかしいのだ!)、かなり充実したプラキチ(吉祥寺プラプラの略→ハヤらせよう!)をしたのです。そしてちょっと疲れたので、ファーストフードに寄って、お茶をすることにしました。温かいコーヒーを飲みながら、充実した1時間を振り返っていると、近くにいた若いギャルの声が私の幸せを壊しました。
「ていゆうか、土曜日に一人でお茶するって寂しくない?」
悪かったな、一人で!仕事帰りなんだよぉーっっっ。と思いつつも、少し寂しくなってしまったことも事実なのでした。
(みなりん)


『最高のプレゼント』

本的に私は人にプレゼントをするのもされるのも苦手だ。「これが欲しい。」と言われれば自分の財布に相談して買えそうな物ならプレゼントすることは出来るが逆に「何が欲しい?」と聞かれるの方がもっと苦手だ。「何?」って言われても…っとしばらく考えるが欲しい物が頭に浮かんでこない。
物欲がないと言えば聞こえがいいが、要するには貧乏性なのだろう。使わない物をもらうのももったいないと思ってしまうし、どこまで必要か必要でないかを頭の中で考えてしまう。
そんな私なのでダンナとコドモに「ホワイトデーのお返し何が欲しい?」と言われてしばし沈黙…。そう言えば某車会社のCMで「物より思い出」っていってたよね)と思って「物より愛情!」と言ってみたが「じゃあ物はいらないよね。」と言われ「もうちょっと考えさせて…。」
そこでも「せっかくくれるっていうのにもったいない!」と思ってしまう貧乏性な私がいた。
(リュウ)

2000年3月 7日
『本を探して』
とっても欲しい本が一冊。以前発行してた出版社はなくなり、再刊した出版社でもしばらく重版未定(もしくは絶版)になっていたのですが、先日ついに…ついに…文庫本となって発売されましたぁ!!それを知らせるチラシを手に「すっーごく、すっーごく、ホントにうれしい!!」と一人で喜び、日曜日、一冊の本を探すためだけにはりきって出掛けました。ところがどこに行っても、文庫のコーナーをくまなく探しても、その本はどこにもありません。しかも書店という場所は、ある意味仕事場の一つなので、行くとどうしても自分の会社の本(文芸書、音楽書、環境、児童書)の棚チェックや立ち読みした本を適当に平台に置いていくマナーの悪い人のせいで、せっかく平積みされている本が見えなくなっていたりするのを直したりで(勝手に)大忙し。結局あっという間に一日が終わり、本も見つからず、休みの日に仕事をしているみたいでも、「また明日も探そう」とそこまで読みたい本に巡り会えている私はちょっと幸せ者なのです。(みなりん)

『ベ−トーヴェンの交響曲第2番』

ベートーヴェンの曲はどれも構造がかっちりとしていて、聴く方も身構える。しかし、そういう曲でも緩徐楽章には美しく、あたたかな雰囲気の曲が多い。ピアノ協奏曲第5番はその最もたるものだろう。この曲は、しかし、秋の澄みきった空みたいな、すこし淋しげな美しさを持っている。ピアノ・ソナタ「悲愴」の第2楽章も、同じような感じがする。私はこの曲をオーケストラ用に編曲したものを聴いたことがある。
ところで、秋ではなく、春ののどかなやさしさ、美しさを持った曲として私は交響曲第2番の第2楽章を好んで聴く。ベートーヴェンらしくないからなのか、あまり演奏されることもないし、CDも数が少ないようだが、私はこの曲をベートヴェンの曲中でもかなり好きで、とくにベームの演奏がよい。モーツァルトの交響曲第39番にも共通する陽性の美しさ、優しさを感じるのである。
(宮)


『春の予感』

先週末に生あたたかい雨が降って、東京では春の訪れを感じさせるようになった。でも人それぞれ(花が咲いたとか芽が出た等々)に春の感じ方があるのだろうが、私独自の感じ方としては、家の前に枯れ葉が飛んでこなくなったことによって「やっと枯れ葉掃除をしなくて済む!」と春を実感できるのだ。
桜の開花予想も今月26日頃ということなので、散歩がてら少し早いお花見にでも行こうかな?
(リュウ)


『沈丁花の香』
お昼を買い求めに道を歩いていると、どこからか甘い香りがしてきた。梅が咲いているのを見つけたので梅かと考えたが、どうも香りが違う。どこかでかいだ、懐かしいにおいなのだ。その後、数歩、歩いてそれが沈丁花だとわかった。かなり遠くのほうまでその香りをまき散らすのだなと感心した。昨日も夜自転車を飛ばしていたら、またもや沈丁花の香りがするではないか。彼らは存在を強く強くアピールして、春も近いこの冬の空の下に強く強く生きているのだなあと妙に感動した日常の一こまであった。(やぎ)

『環境について』

友人と私は、お互い逃避癖があるという点で共通している。ある状況に馴染むと、これという理由もないのに、放り出して逃げたくなる。そして、また新しいところに行き、馴染むとそこもまた逃げる。
これって、ただ飽きっぽいだけなのかもしれないが、ようは、自分を囲む風景をがらっとかえたいのだ。でも、社会人ともなると、いろいろ複雑になってきて、ぽーんと投げだすには、心残りが多すぎる。なので、ときには旅行などして、いっときでも、自分をちがう景色のなかに置くことが必要になるのだ。というわけで、今月の末、旅にでかけます。会社休むいいわけが、こんなに長くなっちゃった。(京)


『忘れられない人』

幼い頃に見たアニメや絵本。その頃の記憶と重なって、忘れられないキャラクターというのがいる。私にとってのそれは、ジャンカリンのおじさんだ。サンリオから出された絵本『くるみわり人形』のなかに登場する子取りである。灰色の長い顔をしたものすごく人相の悪いジャンカリンは、曲がった背中にいつも大きな袋を担いで、遅くまで起きている子どもを探して夜の街を徘徊する。捕まえた子どもは袋に詰めて、ネズミに変えてしまうのだ。顔だけでもこわいのにやってることまで恐ろしい。それでも夜更かししようとすると今度は母が「ジャンカリン、ジャンカリン」と迫ってくる。また、この絵本は人形と模型を使った写真集形式だったため、余計にリアルな印象を受け、ジャンカリンは実在するものと半分信じていた。カーテンを開けると窓の外にジャンカリンが立っているのでは。寝る時間になると頭の中は〈ジャンカリン→捕まる→ネズミ〉の構図でいっぱいになり、慌てて布団にもぐり込み、必死こいて眠りについていた。親はジャンカリンのおかげで手間がだいぶ省けたに違いない。
いろんなキャラクターに囲まれて影響を受けたあの頃。そんな子供時代を過ごして大きくなり、縁あって絵本を扱う仕事をしている今、やはり個性豊かなキャラクターに出会うことは多い。今の子たちはこのキャラクターにふれてどんな影響を受けるのだろうかと気になることも多い。でも、ジャンカリンほど恐ろしい迫力で生活に浸透するキャラクターもそうそういないものだ。あまり思い出したくないキャラクターだが、子どもにはいい薬になる。
(かわら)