王様の耳はロバの耳 2000.1
〜ミレニアム(?)な幕開け〜
2000年1月24日
『カレー食べたの誰?』
ある日の我が家の晩ご飯はカレーだった。カレーをつくった次の日からダウンした我が家の2人は、その後数日間はカレーには見向きもしなかった。あと3皿分以上は残っていたので、まだ食べようと思えば食べられたのだが、ふたをせずに放置していたのであまり衛生的とは言えない状態だった。風邪もだいぶ治ったある日カレーの鍋をのぞいてみると、ジャガイモだけを選んだように、白く筋がついていた。過去に何度が経験している私は、そのジャガイモに残された筋が、ネズミの歯によるものだと検討をつけた。もうこれは食べらんないよなあと。でもなんだか捨てるのももったいない。そのままにすること3日間。毎日覗いてみるとな、なんとどんどん減ってゆく。じゃがいもだけでなくルーも。3日もすると3分の一以上減っている。さすがに恐くなった。食べるなら、全部食べてくれれば捨てずに済む。地球にやさしい?ではないか。だが、さすがにいつまでも取っておくのも汚いかなと思い立ったのと、ネズミの体にも刺激物は悪いと思い(私のネズミに対するやさしさ?)捨てるとにした。その数日後、缶詰などをストックしていた棚の後ろには黒いつぶつぶが山のように落ちていた。それはネズミの「ふん」だった。あんなに食べればふんも沢山出るよなあと思いつつ、なぜ私が夫の他に、こどもでもなく、飼っているわけでもないやつらのために働かなくてはならないのか?という疑問は湧いてくるが、私の作ったカレーをあんなに小さい体(姿は見ていないが)でガツガツ食べてくれたかと思うと、少しはネズミのために働くのもたまには悪くないと思えてしまうのであった。(やぎ)

『こがらし』

21日は今年一番の冬らしい寒い1日だった。1月末になってやっとこんな天気になった。体にはこたえるが、冷たい風が首筋を鋭くかすめていくのは、冬を実感させてくれる。寒さだけなら、日本国内で、もっときびしい所がいくらでもあるだろうし、そう言う場所の出身者は東京の寒さなんてたいしたことないと言うが、カラカラに乾いた冷たい強い風が東京の冬だと私は思っています。これがないのは、すこし淋しいぐらいに思っていたものだから、「冬はこうでなくちゃ」などと、私は一人悦に入っています。
先日は綿雪が舞ったことだし、異常気象だ、暖冬だといろいろ言われながら、冬は冬の天気にひとまずなっているわけで、妙に安心する。
(宮)


『5年たった』

夜、ひさしぶりにテレビをつけたら、神戸の震災のことをとりあげた番組をやっていた。そうか、もう5年たったんだな、となんとなく思った。
あのとき、家庭用のビデオをまわしていた人が、たくさんいたそうだ。番組では、その何本かをうつしていた。
タンスが倒れ、そのまわりで人が泣いている、未明の部屋の中の様子をうつした人。自分の焼けた店と、店のあった場所で、焼けこげたお金をひろう自分の手をうつした人。この人は、避難所での生活もビデオにおさめていた。たえず「これは現実だ、これは現実だ」と自分にいいきかせていたそうだ。
こうした映像には声も入っていた。瓦礫の山になった街に立って「なんちゅうことや、ほんま」とつぶやく声があった。
地震のあとの神戸の街は、びっくりするくらいあっさりしていた。どこもかしこもくすんだ茶色だった。きらびやかに見える私たちの生活をひっくりかえしてみれば、ただ一色からなっているのだ。人も街も、似たようなものだと思った。
あの中に、どれだけの人が埋もれて、苦しんで、叫んで、涙をながしたんだろう。ビデオの映像は、5年前のあの日を、とてもリアルに感じさせた。
もう5年なのか、まだ、5年なのか。中心にいる人と、中心からはなれたところにいる人では、意識がちがう。時間がたてばたつほど、その差がはっきりしてくる。それは、どうしようもないことなのかもしれない。しかし、5年たとうが、10年たとうが、時が洗い流せないいたみをかかえている人が、たくさんいることだけは、忘れないでいたい。

(京)


『無言館への旅・・・?』

北陸本線で日本海をぼぉっと眺めながら長野に向かい、野沢菜おやきをほおばりながら善光寺参りをし、隣接の東山魁夷美術館で絵画を鑑賞し、上田を経て宿泊地の別所温泉に向かった。まるで年寄り連れのような行程だが、ここでユースホステルに泊まるところがまだ若い。夏なら野宿でも構わないぐらいだが、さすがに冬場はやめておく。民宿の1軒もない、1泊1万から2万があたりまえの高額宿泊地別所温泉にも、ユースホステルが1軒ある。ユースがなかったら、別所温泉でゆっくり過ごすこともできなかった。
そもそも今回の目的は、別所温泉から歩いて1時間ほどのところにある無言館という美術館を訪れることであった。ここには、太平洋戦争で、志半ばで命を落とした全国の画学生たちの遺作が集められ、展示されている。何年か前にTVか新聞かで無言館のことを知り、いつか訪れようと思っていた。先の戦争が、多くの命を奪ったと同時に、多くの才能と一人一人の夢をつぶしてしまった事実に目を向けること。こうした人々の犠牲の上で、今という時代に生かされていることに感謝する気持ち。そのような思いを含め、ここを訪れたいと思っていた。国内外、各地にこのような慰霊館、慰霊の地がある。広島の平和記念館には何度も訪れているが、長崎の原爆資料館、ポーランドのアウシュビッツ収容所なども訪れるべきだろうと考えている。戦争が残した傷跡、人間がしでかした過ちに目を向けることの必要性は、現代における自分たちの生き方におおきな意味を成してくる。暗いから、重いからとあえて避けるようなことはしたくない。
と、思いをふつふつとあたためながら、ユースに泊まった翌日、別所温泉の停留所で無言館行きのバスを待っていた。歩いても1時間ほどだが、この日の午後に千葉に行くという少々むちゃくちゃな日程を組んでいたため、時間がなかった。しかし、待てども待てどもバスは来ない。日に数本の田舎のバス。逃したわけではないが、バスらしい形の車はいっこうに表れない。業を煮やして、案内所に電話をかけると、「日曜日なので運休です」。日曜日は休むのが当たり前という考え方に、友人と二人言葉も出ない。しんと冷えた山あいの朝の空気の中、急に強く感じ始めた寒さに身をちぢめ、歩いていく気力も失った二人は、体を温めようと、きびすを返して温泉にむかった。さっきまでの熱い思いはどこへ行ったのか。一番の目的が果たせなかったのは心残りだが、ゆっくり時間を作って訪れるべきと開き直り、温泉を満喫することにした。身も心もゆで上がり、小諸に向かう友人と別れて別所温泉を後にした。
無言館、次回はちゃんと訪れよう。ロバ耳で報告できたらと思います。
(かわら)


『妙な体質』
誰にでもあるのかもしれないが、私は幼い頃から不思議な体質なのである。ミント系(ハーブ系も含む)のガムやあめなどを口に入れると必ずくしゃみが出る。「良くあることだよ。」と言われてしまうかもしれないがそれだけにとどまらない。明太子やすじこ等の粒系(もしくはしょっぱい系?)、奈良漬け等の漬け物系もくしゃみが出る原因になっている。しかし、不思議と花粉などにはまだ悩まされたことはないが一体どういうことなんだろうか?何か匂いと関係があるのか全く分からないが、ちなみに私の兄弟もこれと同じ症状になっているらしい。少しは遺伝も関係するのかもしれない。このような妙な体質の人、もしくは原因を知っている人は『ロバ耳 係』と明記の上メール下さい。
追伸:本当は月曜日に更新している「王様の耳はロバの耳」(略してロバ耳)。しかし不覚にも私は月曜日に休んでしまった。そのおかげで(?)みんな私の取り立てる顔を見ることがなかったせいかほとんどの人が「ロバ耳」を書くのを忘れていたらしい。
火曜日に私の顔を見るなり「あっ!すぐ書くね。」と言われてなんだか複雑な気分になってしまった。(なんかサラ金の取り立て屋さんの気分?)
(リュウ)
2000年1月17日
『整理整頓って何だろう?』
この間、「ロバ耳」に登場している人達と遅めの新年会をやったのですが、その中で「部屋が汚いかきれいか」を暴露しあいました。私の部屋は散らかっている派なのですが(←あえて汚いとはいわない)、約1〜2名、その散らかり具合が一致した人達がいて少し安心しています。1〜2名が誰なのか、部屋の汚さの詳細は、女性としてどころか人としての品位をも落としかねないので、内緒にしておきます。
さて、私の部屋は確かに散らかっていますが、「何がどこにあるか」はちゃんと把握しているし、「何をどこに置くか」もちゃんと決まっています。でも、「どこに置くか」決まっていないモノたちが日々増えていくのです。…それが部屋が散らかっている原因ではないかと思っています。しかも、モノを捨てられないので、増えることはあっても、減ることがほとんどないのです。そんな悪循環を繰り返し、「部屋片づけよぉっと」と毎日口癖のように言いながら、まったく実行にうつす気配を感じさせず、今はまだ「結構散らかってる」ですんでいる部屋が「手のつけようがない」部屋に変わる日も近づいているのかもしれません。
(みなりん)

『私の太宰治』

出版社につとめて編集という仕事をしているが、恥ずかしながら、文学史に残っている有名な作家の作品を、あまり読んでいない。なので、太宰治についても、教科書にのっていた『走れメロス』と、『人間失格』くらいしかしらない。
そのせいか、私のなかで太宰治という人は、長いあいだ「女々しいうえに自分の不幸を金にするいやな奴」だった。『人間失格』を読んだ高校2年生以来、ずっとそう思っていた。ところが、先日『津軽』を読んで、それまでの太宰治観を、あらためざるをえなくなってしまった。
ここで、ことわっておきたいのは、私は作家としての太宰治に開眼したというのではないということだ。もちろん、これから彼の作品を、読んでみたいと思っているけれど、より正確にいうと、「あたし、あの太宰って人、好きになっちゃった」というかんじなのだ。この続きを読もうという人は、そのへんを考慮して読んでください。
人はどういうとき、恋におちるのだろうか。私の場合、相手の意外な一面を見ると、くらっときてしまう。そういう人は、けっこう多いのではないかとおもう。
「この人って、実は○○だったのね」。
そうなると、それまで欠点としか見えていなかったところも、「こういうかわいいところもあるのね」になってしまう。私は『津軽』を読んで、見事にこれにはまってしまった。
本の内容については詳しく書かないが、『津軽』から感じられた太宰治の意外な骨太さ、情の深さが、私の考えを一変させ、それまでの太宰治観が投げ捨てられることになった。それどころか、「あの人は、女々しそうに見えるけれど、実はかたい信念をもって生きた人。度重なる不祥事は、あの人の不器用さのあらわれ。彼は、私たちとはべつの次元でたたかって生きた人なの。おもてむきはどう見えても……」となってしまった。自分でもあきれるほど、ひとりよがりでミーハーだが、人を好きになるとはこういうものだ、とひらきなおってしまおう。
しかし、この「実は」が曲者で、「実は」と感じるのは、それまで、相手をみくびっていたか、全然眼中になかったということである。また、「実は」が先なのか、好きになったのが先なのか、つきつめていくとどちらかわからなくなる、非常に感覚的なものでもある。たんなる誤解や思いこみの場合が8割こえると考えていい。しかし、どちらにしろ、ひとたび恋におちてしまえば、この「実は」は甘くて美味しいものである。
恥のうわぬりで書いてしまうと、もし、太宰治がいま生きていたら、「あなたがたたかっていることは、知っています」と物陰からこっそり見守っていてあげたい。そんなことされても、相手はちっともうれしくないだろうが、これが片思いというものだ!
そして、これまたひとりよがりな妄想なのだが、彼は『津軽』を書いているときが、いちばん心の平安をえられた時期ではなかったのだろうか。夏目漱石が『我が輩は猫である』を書いていたときのように。
私の好きな人に、そういう幸せな時があって、それが、その作品にあらわれているとしたら、私は、太宰治のすべての作品のなかで、『津軽』がいちばん好きだ。片思いとは、相手の幸せを、自分の幸せと感じるものなのだから。……馬鹿な奴だと笑ってください。
(京)


『旅の要素』

信州を松本から北陸にかけて走る大糸線南小谷をすぎた頃から、夜が白々と明けてきた。今年最初の3連休、職場の友人と連れだって、長野を旅した。前夜23:50に新宿を発ち、明け方5時に南小谷に到着。そのまま糸魚川行きの列車に乗り換えた。深い山あいをゆくたった2両のワンマン列車に揺られ、糸魚川−直江津を経て、長野に向かう。なぜにこんなに遠回りするのかというとただ冬の日本海が見たかったから。どうせなら途中下車すればいいのだが、それはいやだ。暖かい車内から寒々と荒れる日本海を眺めたいのだ。あほである。それにつきあう友人も同類である。実際、途中下車するほど時間もないので、眺めるに留めた。
重く深い灰色の空の下、冬の日本海は荒れていた。浅緑色の海面は、高く大きくうねり、白波が切れ間なく浜にうち寄せていた。ひいてはうち寄せる海の鼓動が体に自然と溶け込んでくる妙な感覚を受けながら、車窓から、ただただ海を眺めていた。私の中では時間がぴたりと止まっていた。北陸を通らずにまっすぐ長野に向かっていたら、この瞬間は味わえなかった。ちょっとした演出で旅のおもしろみは増すものなんだなと感じる一時でもあった。
知らない土地を行くとき、ちょっと足をのばしてみようという気の流れが命取りになることもある。
しかし、安全と判断できる範囲内の好奇心と演出は、旅に欠かせない要素である。
今でもこのときの情景を思い起こすと不思議と体の中に刻んだ海の鼓動が甦ってくる。
旅はその後、長野を経て、さらに別所温泉へと続く。つづきは次回ロバ耳にて。
(かわら)


『大震災』

今朝、綿が舞うごとく、フワフワと降る雪の中を歩きながら5年目の震災のことをしきりに考えていた。
ここ数日のテレビ、新聞大震災特集をしきりに流している。5年前の惨状と、今日の景色が対比されている。被災者、遺族の心の問題についてもいろいろととりあげている。人ごとでないから、見ているとしばしば胸がつまる。
震災の日の深夜に西京の病院にやっとたどりついた時のことを、私はいまも忘れることができない。夕方伊丹空港に着き、それから空港で延々タクシーを待ったあげく10時過ぎていたと思うが、やっとタクシーに乗り、途中からは徒歩で目的地をめざした。途中で見た住宅はいくつかはどうしたらこんなにこなごなになるかと信じられない程こまかく壊されていた。自宅がつぶされて、兄が死んだ。この日から帰京するまでのこと、ここでは書かない。
東京に帰ってから、仕事に戻ったが、どうも仕事をする気力が出てこない。仕事なぞどうでもいいことだという気持ちが胸の中にわだかまっていた。今から思えば、ずいぶんぼんやり過ごしていたに違いない。
会社が苦しいときで(今も苦しいが)、なすべきことは山積みしていたにもかかわらず気力が出ない。この感覚が序々に元通りになっていくのに1ヶ月以上かかったと思う。
(宮)


『あれから5年』
「もう5年経ったんだ。」とテレビで震災についての報道がされているのを見て思い出してしまうのはある女性のことであった。
その頃、臨月で病院の先生に「もうすぐ予定日ですね。」と言われていた。初産でしかも親元から離れて出産することを決めていた私は、何とも言えない不安が心の中にあった。その当時、どのチャンネルを回しても凄まじい映像が流されていてさらに不安が高まってしまっていた。
予定日から10日ほど経って無事に出産し、安心感と陣痛による疲れで眠りに就こうかというときに隣のカーテン越しに「お疲れ。ちょっと話していい?」と私より少し前に出産した女性に話しかけられた。
その女性は出産のために神戸にある実家に帰っていたが震災に遭い、2才になったばかりの子供の手を引き、臨月の身でありながらやっとの思いで東京の自宅まで戻ってきたと話した。そして最後に「何があってもこの子のためにがんばれるっていう気持ちになれる。」と…。
「がんばってね」と背中を押されたような気がした。
その女性とは現在は連絡をとっていないが、今でもあのころの気持ちのままでいるんだろうな。
そして「母は強し」という言葉もこの時に実感できたのだった。
(リュウ)
2000年1月11日
『風邪ひいたよーん』
「ばか」は風邪ひかないと、世間では言われているが、実はあれはウソである。なぜなら私がひどい風邪をちゃんとひいた。基本的に健康体の私は、めったなことでは、会社を休まない。怪しいなと思ったら無理をしないがモットーの私は、具合が悪けりゃ寝るに限るで、この年まで生きてきた。それが成功だったか失敗だったか分からないが、成績の問題を除けば、小さい頃からほとんど学校も休むことなく、会社勤めをしてからも、皆勤手当をもらえなかったことは(有給休暇を代用したこともあるが)一度たりともないという、偉いお人なのだ(自分しか誉めてくれないのが悲しい…)。
なのに、初仕事をしてから数日目になるとなんだか体がだるいではないかぁー。家では、すでに夫が風邪をひいてダウン(会社には行っていたらしい)していた。「風邪かあ、ばかだねちゃんと温かくして寝ないからだよ」「夜更かしするからだよ」「大分の温泉で湯冷めしたんじゃない?」「わたしは、風邪なんかひかないもんねー。だいたい風邪ってうつるもんじゃないんだよー」などと様々な言葉を浴びせかけていた。夫はその半分もまともに聞いちゃいなかったが、その翌日には私はその夫と全く同じ症状に襲われた。風邪って伝染る(うつる)んだ。と気付いた。でも、伝染るのは体が弱っているせいなのだろう。
去年から、私にしては公私ともに忙しく、睡眠時間もままならなかった。そのまま九州の夫の実家に帰省、(昨年、自慢ではないが、自分の年賀状を一枚も書けないまま新年を迎えてしまった。M家がお世話になった大切な友人達、親戚の方々ごめんなさいっっ。そのうち寒中見舞いが届くはずです)息をつく間もなかった。木曜日の朝からからむくむく起きあがってきた風邪は、金曜日の朝に絶好調になり、その日、久しぶりに私は会社を休んだ。今週末は、3連休なので、金曜日に休むと4連休だ、ワーイ!?などという余裕はなかった。喉は痛いわ、咳は出るわ、頭は割れるように痛いわで、連休はほとんどものも喰わず、ただ寝ていた。
ようやく月曜日に少し復活し、少しは、外に出ようかと、数時間の外出。足は久々に使われて、フワフワ。あー明日から会社に復帰できそうじゃと確信した。そうそうそう言えば少し良くなってきたときって、体中がエネルギーに満ちあふれてくる瞬間があるのね。久しぶりにエネルギーが発散されたがっている感じが経験出来ました。皆さんも風邪ひかないようにねっ。
(やぎ)

『メガシップ』

この10年程、大型クルーズ客船の建造が活発に行われている。巨大客船の時代は1920〜30年代に1度あって、クイーン・メリー、クイーン・エリザベス、ハルマンディといった優美、華麗な姿を持った船が造られた。戦争にぶつかったために活躍した時間は短い。旅行はジェット機の時代に入ってしまいこのような船が2度と来ることはないと言われていた。
それが、定期客船ではなくて、クルーズ客船として、ふたたび巨船が造られ始めた。ソブリン・オブ・ザ・シーが出てきたとき、7万トンを起こす巨大高速走行する爽快な姿を目を見張って見てしまった(もちろん、写真で)。
姉妹船が造られるとは知っていたが、ほかに、このクラスの船が造られるとは予想していなかったのに、この10年の間に10万トンクラスが続々と走り出し、14万2000トンのヴォイジャー・オブ・ザ・シーまで出てきた。「世界の艦船」を見ると、これらの巨船群をメガシップといっているらしいが、編集後記にあるように、「名前がどうも」という憶えにくくて、あの1度目の巨大客船時代のそれとは打って変わった。およそスマートでない、ビルディングが海を走っているみたいな船には、丁度いいのかもしれないが…。
しかし競争でメガシップ建造に走るとなると、単に大きさだけでなく、船としての魅力あるデザインが、これまで以上に求められるに違いにないし、名前にも同じことが言えるだろう。昔のままの姿を再現すればよいといっているのではなく、いまの時代の新しい客船の姿を創り出してほしいと思う。
カリブ海を舞台にした激しい競争が、クルーズの大型化をもたらし、また巨船の建造への方向を定めたらしいが、アジアではシンガポールの企業がメガシップの建造と、クルーズの大衆化の先頭を走っている。新しいレジャー産業を、どのようにして軌道に載せよるのか新しい問題だったのだろうが、おっかなびっくり手を出していた日本の船会社はおいてけぼりをくい、シンガポールにさらわれてしまったわけだ。しかし、ここまで方向がはっきり見えてくると、日本の船会社も今度は猛然とダッシュして、あとを追いかけるのは得意だから。
小社の「静かな海と楽しい航海」も出版がすこし早過ぎたらしいが、世界は、いよいよクルーズ旅行の時代に入ったらしいし、新しい本を出すタイミングがめぐって来たのかもしれない。
(宮)


『これも疎開の一種なのだろうか?』

2000年問題も生活を脅かすことなく、「何か起こるのだろうか?」と思っていた私にとっては安心したような拍子抜けしたような何とも言えない正月になった。(まあ結果的に言えば良かったのだろうが…)
それにしても2000年問題に備えて石油ストーブを購入する人が多かったというニュースにはビックリした。その後その人達はどうしているのだろうか?まさか使わないからといって捨てている人などはいないと信じたいが…。
でもこの時ほど「田舎とは何てすばらしいのだろう!」と思ったことはなかった。何はなくともなんとか生活できるし、そこまで2000年問題に対してもせっぱ詰まっていなかった。(誰?原始的な生活なんていっているのは…)
これからますますコンピューター化が進んでいく中で、本当の人間としての生き方は自然の中でしか見つけられなくなる時代がいずれ来るような気がしてならない。「景気回復だ何だ」と言われているが、山を切り開いて道路を開通したり建物を建てたりするだけが”景気回復だ”という考え方を少しずつでも見直していくことが必要だ。必要のないものにお金をかけないことも借金を作らないための大事な一歩だと思う、なんてえらそうには言えないけど「国の借金はいい加減にして欲しい!」というのが一国民の意見でした。
(リュウ)


『2000年問題?』

新年あけましておめでとうございます。
年末年始を私は、田舎(長野)で過ごしたのですが、食べてばかりいました。そして、寝てばかりいました。なので、ちょっと太りました(特におなかあたり)。でも久々にゆっくりできたので、大満足です。
さて「Y2K問題」が騒がれていましたが、なんの準備もせず、何にも気にせずに、ちょっと太って田舎から帰ってきた私を、新年早々さまざまなトラブルが待っていました。まずビデオが完璧に壊れ(元々壊れてかかってたけどさっ)、パソコンが壊れ(これも元々壊れかかっていた)、ちょっとへこみました。
そして、次の日。シャワーを浴びようと蛇口をひねると、一向にお湯がでない!いつもならお湯がでるまでどんなにかかっても30秒なのに…1分経っても、シャワーからでてくるのは水・水・水。「電源は入っているのになあ〜」と思いながら、リモコンをよくよく見ると、いつもなら着火したときに表示される火が燃えてる図がでていないではないか!!壊れたことを察知したはいいけれど、もう髪の毛にシャンプーをつけてしまった後だった。しょうがないので、お湯をやかんで沸かしながらそれを少しずつ水に薄めて使うという手法でその場は乗り切りました。シャンプーのついたままの頭でうろうろしたおかげで部屋の中は泡だらけでした。で、一番驚いたのが、時計です。デジタル時計(腕時計)の表示が、すべて消えてしまったのです。ちょっと前まで、好きで集めていたので数も結構あるのですが、全て消えています。一応「2000年問題」と言うことで自分の中では納得していますが、本当はどうなんでしょうね?

(みなりん)


『私と語学』
 一念発起して英会話講座に通い始めたのが去年の秋ぐち。夜間週一回の3ヶ月間短期コース。これなら通うに楽だし、挨拶の基本ぐらい覚えられるだろうとたかをくくったのが甘かった。まともに出席したのは最初の回のみ。遅刻して宿題のプリントだけもらって帰ったのが2回。それきりである。受講料で何が買えただろうと心で泣く。
 どんなに忙しくても、通うと決めたら時間を作ってでも通うだろう。それができないのは、物理的に無理というのではなく、単に根性がないだけの話である。が、あえて根性のなさを棚に上げて言う。私は英語・英会話とは実に相性が悪い。中学・高校と帰国子女の多い学校に通っていたせいか、ネイティブに近い英語教育を受けていたように思う。でも授業には今ひとつ興味が湧かなかった。嫌いというわけでもないので、洋画を観たり、洋楽を聴いたりして慣れ親しもうとはしていたが、肝心の語学習得能力に欠けていた。当然、受験英語にも苦労苦労。大学に入ったら入ったで、外国語の授業はついてまわる。フランス語、ドイツ語、イタリア語と選択肢は色々とあったが、あえて英語を避けるより、この機会にぜひしっかり身につけようと思い直し、再び蟻地獄にはまる。で、今回の英会話講座。他にもラジオ講座など色々と試みた。こちらから英語に近づこうとすればするほど、逆に溝は深まる。顔を合わせれば喧嘩というような間柄。
 それはさておき、人間には向き不向きがある。ということに、ここに来てようやく気がついた。焦ってもしょうがないマイペースに勉強していくさと開き直り、気分転換に中国語に矛先を換えた。以前から度々かじっていたこともあり、なじみはある(はず)。参考書とラジオ講座で勉強中。発音は難しいものの、日本語と近く、兄弟のような言語であるため親しみやすい。語学に興味が湧くのも珍しい。おっ、これは向いてるかもと、密かな手応えを感じながら習得中である。
 中国語、仕事で使うことはないかな。・・・ないね。
 やはり英語か。身につかなかった英語が嘘のように習得できる秘訣があったら誰か教えていただきたい。このままでは“家出のドリッピー”などの教材に手を出しかねない。
(かわら)