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くんぺい魔法ばなし−山のホテル− |
東君平/作・絵 |
サンリオ |
東君平は今はもう、この世にいない。1986年に肺炎でこの世を去ってしまったのだ。私にとって生きているうちにあってみたかった人の一人である。会って話をしてみたい。それは「お元気ですかあ?」という日常の一こまの会話でもいい。この本は、買ってから10年以上たったいまでも私の大切な本の1冊なのだ。彼は版画家であり、絵本作家であり、童話作家、詩人でもある。この本は不思議だ。小話なのか、詩なのか、物語のようでもあり、散文のようでもある。
私は学生時代、自分の気持ちのはけ口をうまく見つけられなかった。まわりからいい人と思われていたようだったが?実は気付くとすごく人の中にいると疲れる自分がいた。群衆の中の孤独を味わったり、家族以外に怒りなどをぶつけるすべを知らなかったから辛かった。この本はそんな生活の中にいるときに出会った。彼のこの言葉たちはすーっとこころにしみてきた。肩にはいっていた力をすーっと抜いてくれる本なのだ。現実ではないようで実は現実を見据えた世界。そこに東君平の世界はあるような気がする。そこに私は強くひかれているのだと思う。昔、彼の作品はよく「詩とメルヘン」に紹介されていたらしい。私は彼の作品のその時の読者ではないが、時代を経ても変わらないもの、廃れないものは存在するのだと思う。
この本の中に「小さなノート」という題の文章の中でこんな箇所がある。私の好きな一節を抜粋したい。
詩人のKは、いつも小さなノートを持ち歩いている。
「詩というものは、不思議なもので、空から降ってくる」
それを、Kはさっとノートに書きとめるというのだという。
(中略)
「歩きながら書くから読みにくいだろう」
Kのいう通りだった。
ノートの字は大きかったり小さかったり、ぐにゃりと曲がっていたりで読みにくかった。
「ということはだな」
Kは背中を丸めて小声になった。
「あの人は字が下手なのだよ」
(後略)(「くんぺい魔法ばなし」小さなノートより抜粋)
そういう経験をしたことはないだろうか。物語とかそういうことではないにしろ、すごくいいアイデアが浮かぶときというのは歩いているときとか、そういう思いもよらない時だったりするのだ。そんなときメモっとかないとと思って立ち止まると忘れちゃったりするのだ。彼の作品を読むとき私は、一人でいることが寂しくなくなる。一人の時間に埋没し、それを楽しむようになった。彼の文章は、すごく甘く、優しいだけではないし、意外と客観的でクールな見方もしているから夢だけに溺れることがない。メルヘンの世界を持ちながら現実を見据えた純粋な人物なのだろうと一人で想像している。昔私は小説家になると親戚に触れ回っていたそうだ。そんなことは既に忘れていたのに。「小説家になった?」と親戚からいわれるたび、小説家にはならないだろうな(なれない?)、と近頃思っている。でも東君平さんのように自由に文章がかけたら楽しいだろうなとこの本を読んで思うのだ。
ある日、本屋をぶらぶらしていて見つけた本。そういうものの中には、なかなかどうして長年人の本棚に残っていく本があるものだ。1000円ちょっとで買った本は読む人によっていくつもの価値が付加されてゆく。それはお金にしてしまうと寂しいけれど心の中にいつまでも残って、その本をなくしてしまった時でもその価値は変わらないのだろうと思う。ちなみに最近本屋で東君平の娘の東菜奈が書いた東君平のルーツを書いた本をみつけて買った。「風を待つ少年−東君平物語ー」(集英社刊)だ。興味がある人にはこちらもオススメだ。(文:やぎ) |
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