王様の耳はロバの耳 1999.12
〜クリスマスはどのように過ごしますか?〜
1999年12月27日
『サンタクロース』
幾度となくクリスマスを迎えてきた。サンタクロースは実際の所いるのだろうか?ということを、今年になって改めて考えた。私としてはいてほしい、多分いるだろうと思っている。この間、扶桑社の『サンタクロースの冒険』を読んで、ますますその確信を深めた。サンタクロースはもとはといえば人間なのだそうだ。
森に捨てられて森の妖精たちに育てられたクロースが、サンタクロースなのだ。どの子どもも幸せになるけんりがあるのだという。はじめてクロースが森を出て人間を見たとき、いろんな人がいるのに気付く。とりわけ子供達が目についた。そうだ、子供達を幸せにするのが私の役目だと、青年になったクロースは思う。そして森のはずれの笑いの谷に一人で暮らすようになった。そこでクロースは子供達のためにおもちゃをつくりはじめた。うわさを聞きつけた子供達ははじめクロースの家までおもちゃをもらいにいったのだが、もっと遠くの町の子供たちはとりに来ることができない。
そうこうしているうちにクロースはおじいさんになって命の灯火が消えかかっていた。その時森では会議がおこなわれた。不滅のマントにふさわしいのはクロースだと。そしておじいさんになったクロースは今でも生き続けているのだ。なぜサンタクロースがおじいさんなのか私は知らなかった。ちゃんと子供だったころもあり、死にそうになったおじいさんのころに不滅のマントをもらったからおじいさんの姿のままなのだと。若者の時にもし不滅のマントをもらっていたら若いおにいさんだったかもしれないなと思いながらサンタクロースに思いを馳せた。
これは物語だけれど、なんだか全部ありえる話のような気がしてうれしくなった。そして25日朝、目がさめると私の枕元にはサンタクロースからの手紙と「ラーピー」(最近気に入っているお菓子でちょっとぴりっとしたベビースターランーメンとピーナッツが入っている)がぽんとおいてあった。ちょっぴり嬉しい朝だった。あれ?でも私こどもじゃないや。まあ、よしとしよう。(やぎ)

『歴史記事』

新聞に出た広告につられて「諸君」2月号を買った。「歴史と歴史認識」というタイトルで、坂本多加雄、秦郁彦、半藤一利、保坂正康の4氏が「ワシントン体制」から「戦争責任と戦後補償」までの12のテーマについて議論している。
議論は穏当なものだし、E.Hが言うように今の時点からの視点が生きている。
しかし編集部のつけたリードは、いかにも、薄っぺらな感じがする。「謝罪史観に終止符を打つ!」だとか「白熱討論15時間」とか「われらの父祖が生きた『昭和』は本当に『暗黒の時代』なのか。」とか。
いま、センセーショナルな表記をする必要はすこしもない。白熱した討論でなく、落ち着いた議論が大すじである。その点で、この記事の参加者は立派な態度で議論している。(宮)


『希望だけは持ち続けたい!!』

今年もあとわずかで終わろうとしている。必ずこの時期になると「今年の重大ニュース」などのスペシャル番組をテレビで見て、いろいろあった一年を振り返るのが近年の我が家の定番となってしまっている。
今年も気が滅入るような事件や事故がありましたね。
個人的には過去を振り返ったりするのが苦手で、前しか見えないタイプなので自分の今年一年を振り返ってもあまり何も出てこない。(というよりも忘れてしまっているだけなのかも知れない)
学生の頃に聞いた、「時間だけはどの人にも平等に与えられている」という言葉を今になって少し理解できるようになった。誰に対しても同じ時間なのだが気持ちの持ち方ひとつで、充実した短い時間に感じられたり、沈んだ重苦しい長い時間に感じられたりするのではないだろうか。(誰?歳だから時間が経つのが早いとかいうのは!!)
このホームページを開設して右も左も分からないところから始めたので、まだまだ勉強が足りない所もたくさんありましたが、また来年もいろいろな楽しい企画を考えたり、もちろん見て下さる方の意見もどんどんとり入れていけたらな〜という希望を持って、より楽しいホームページにしていきたいと思います。
ユーザーの皆さんの熱〜いご要望、ご意見お待ちしております。
それでは良い年を…。(リュウ)


『2000年に向けて』

なあんて、タイトルを付けたけれど、別に2000年だからどうのこうのという感じはないですね。1000年代最後の○○○とか、世間は騒いでいるけれど、だからどうした!という感じだったりします。イベントごとに興味がないというか、さめてるんです、結構。ミレニアムの意味も実はちょっとわかんなかったり(今更誰にも聞けないし…)、何となく世間に取り残されている気分です。まあ、いつもと変わらない年末年始ということですね。
さて、このシーズンもう一つ重要なイベントがクリスマスですね。ちなみに私は、なんの予定もなく、おうちで一人でテレビなんぞを見ておりました。「寂しい〜」と数人の友人に言われましたが、そんなことは全然ありません。人が大勢いる街中にわざわざ出掛けるよりも家にいた方が、孤独だったとしても私にとっては楽しいのです。もうちょっと若い頃、クリスマスパーティーをしたり、家のドアにリース(200円)を飾ったりなどというかわいい時期もあったのですが、あんまりあま〜い思い出がないせいで、ちょっとひねくれてしまったのかもしれません。
さて、今年最後の「ロバ耳」ということで、1999年は振り返ってみると…プライベートはかなり強烈に悲惨でしたね。特に前半は、恐怖の大魔王が私の元にはドカドカ,ズカズカやってきて、困らせてくれました(涙)今年最初の「ロバ耳」で「おみくじが凶だった」という話を書いたのですが、まさにその通り!ピッタシカンカン(←古い)でした。もう一生おみくじはひかないと思います。そういえばうちの母親も若い頃おみくじを引いて1度凶がでてから、2度とひいていないそうです。さすが親子です。でも、まあそういうつらい時期があったりして、そのおかげでいろいろ考えたりして、自分自身にプラスになることもあったので、結果オーライかなあと思います。三十路は近づいています…来年は歳をとっていくのが楽しくなれるように、人間として女性として、一歩でも前進できるよう、がんばります。(みなりん)


『道祖神のはなし』
毎朝、車窓から富士を眺めて通学・通勤すること早10年。京王相模原線にて多摩川を渡る陸橋の途上、多摩丘陵の方角を眺めると、山あいから雪化粧の富士山がぽこっと顔をのぞかせる。空気の澄んだ冬の季節は特にくっきりと姿を現し、そのどしりとした佇まいは見る者を釘付けにする。冬の朝はこの富士を眺めるのが楽しみで、必ず窓際にかじりついて外を眺めて通勤している。毎朝同じ場所に乗り、多摩川の橋にかかると決まった方角に顔を向けるため、ときに怪訝な顔でこちらを見ている人がいるが、同じ電車に乗る人で、どれだけの人が遠くから見つめる富士に気づいているのだろう。富士が見えたその日1日は何かいいことありそうで、少し得した気分になる。
道すがら、道祖神を拝み、行程の無事を願うかのごとく、毎朝見えても見えなくても富士を眺めて今年1年が経った。例にならって1年を振り返ると、仕事、生活、様々な面で視野の広がった年だった。ちょこちょこと旅に出たり、山行に尽くしたことも視野がぐいと広がった大きな原因かもしれない。あちこち飛びまわったが、ケガすることもなく、無事過ごせたことはやはり(私にとっての道祖神)富士山のおかげか。道祖神は本来みちをまもるかみだが、道ばたではたと出会うと、その行程すべてを見守ってくれるような気になってくる。通勤途中で眺める富士も見守ってくれるかみさまみたいなものである。
ところでこの道祖神、日本だけの民俗文化なのか。信州、北アルプスの麓での道祖神めぐりをおすすめするガイドブックの特集記事をたまに見るが、道祖神だけをひたすらめぐる企画が成り立つのもこの国特有の信仰文化によるものなのだろうか。外国の片田舎でも道祖神めぐりをしようなんて企画はまずない。それにかわるようなものも外国の道ばたでは見かけない。山を信仰の対象にしたり、武器ではない身を守るものを持ち歩いたりすることは、どこの国の民族にも共通するが、この道祖神だけはその例を見ないし、聞かない。やはり日本だけなのか。来年は道祖神に意識を向けて、民俗学者さながら道祖神の研究でもしてみようかと思う。旅の行程に面白みが増すかも。
どうでもいいけど「ドウソジン」・・・響きがイカツイ。(「ダイマジン」のようで。)(かわら)

『今年の反省と来年の抱負』
新年を迎えるにあたって、今年(98年)をふりかえり、来年(2000年)の抱負を語るようにリュウさんにいわれた。あいにく、私の頭のなかは年じゅう正月さ! といいたいところだが、暦が、植物が萌え、枝をのばし、散っていく生命の循環に即したものであることを考えると、あながち数字だけのこととはいえない。私は今年の10月で入社2年目をむかえ、ちょうどこの時期に、仕事上の大失敗をやらかした。私もまた、生命の循環に即して成長(?)しているということだ。
入社して最初の1年は、新入社員のつねとして、緊張しつつ遠慮がちに過ごしていた。しかし、2年目になると、すこしづつ態度が大きくなり、ほんのわずかだが、油断も出てきた(けして余裕ではない)。そして、2年目がまさに終わろうとするとき、どかん! と大きな失敗を、2連発でやってしまった。たとえるなら、それまでリボ払いだったのが、ボーナス一括引き落としをされたような打撃だった。しかし、この失敗で迷惑をこうむったのは、私ではなかった。会社をはじめ、著者、印刷所、同僚、この本の出版にたずさわる周囲の人だった。このことによって、私はひとりで仕事をしているのではない、とあたり前のことを思いしらされた。そもそも、ひとりでできる仕事など、あるのだろうか。いっけん、自由に見える職業でも、その人にお金を払ってくれる人や、お金を払うべき人がいるということは、とりもなおさず、人に依っていることになる。仕事を持っていない人だって、ホームレスの人だって、ほかの人が流通させたものを買い、もしくは拾って生きているし、大自然の中で人工的なものがひとつもなーい、というところに住んでいる人も、その自然に依って生きている……。
話がずれたが、とにかく、自分の行動が、他人に何らかの影響をおよぼすのだということは、知っておかなければならない。このことを頭で理解するのはたやすいが、実感するのは難しい。私は2度の大きな失敗によって実感した。同じ失敗を2度とくりかえさないことで、迷惑をかけた人々に、誠意をしめさなければならないと思う。
そこで、私の来年の抱負は、仕事で「プロ意識」を持つことだ。プロといえるようになるのは何年も先のことだが、プロ意識だけはしっかり持つこと。そろそろ「経験が浅い」といういいわけは通らなくなってきた。そもそも、仕事でいいわけは通用しないのだ。いいわけをしないですむように考えて行動しなければだめなのだ。なぜこんなにくりかえすのかというと、私がいいわけマンだからだ。会社で1日3回は、いいわけじみたことをいっている。年明けからは、いいわけ1回につき罰金100円くらいの心がまえでいよう。そして、その罰金が10万円になってしまったら、私は山にこもって修行しよう。それまでの自分をあらためるために。いや、その前に辞めさせられてるか。(京)
1999年12月20日
『読みたい本』
私の眠る前の楽しみの1つがコドモと絵本を読むことだ。残念ながら1冊\1000以上する本をたくさん買う余裕も置くスペースもないので、もっぱら家からほど近い図書館で本を借りることにしている。(出版社に勤めていながら申し訳ないが…)全部で5冊借りられるという限られた中でコドモに選んでもらって時には私が好きな本を選ぶことにしている。(一般書にしようとしても結局は児童書になってしまうが…)仕事柄というわけではないが私はコドモがどんな本を選ぶのか毎回楽しみにしている。選んだ本の中で私が幼い頃読んでいた本があると「やっぱり!」などと心の中で妙な共感を覚えたりしている。
面白いことにコドモは一度気に入った本は何度でも読みたがる。内容を覚えてしまうほど繰り返し読んでいるのにちっとも飽きない様子で「次はこうなるんだよ。」笑うところも同じ。悲しそうにするところも同じ。でもそれだけ内容が面白いということなのだろうか?
コドモは大人と違って、強いメッセージが込められているものに敏感で自分の考えやしがらみにに凝り固まらない自由な発想を持っている分、反応が正直なのだろう。
残念ながら以前私が「これママの会社で出している本なんだよ。」と図書館にあった本を見せても「ふ〜ん。」とあまり興味がなさそう。(コドモにもいろいろ趣味があるので…)でもいつの日か「この本また読みたい!」と言われたら最高だろうな〜。(リュウ)

『本について』

伯父にもらった数冊の本は、長いあいだ本棚に埋もれ、東京に来てから6回の引っ越しを私とともに経験している。なのに、まだ一度も読んだことがない。じゃあ、なぜもっているのだと、荷物をほどくたびに自分でも思う。
私は読書家ではないけれど、読書家になりたいなあ、と常日ごろから思っているので、おもしろそうな本を見つけると、とりあえず買っておく。しかし、読書に集中していられる時間が短いので、読むペースより、買うペースの方がはるかにはやい。で、新しく買われてきた本は、部屋の隅に「つん読」され、そのうち、本棚のこやしとなって忘れられる。
しかし、ずっと忘れられているわけではない。ある日、ふと目があって読みはじめることがある。おもしろいじゃないの、なんで読んでいなかったのだろうと、今さらながら思ったりする。本の方からすれば、「何を今ごろ」と思っているだろう。
かと思うと、買ったその日にワクワクしながら読む本もある。買ったときの興奮をそのまま持ちこしているから、集中する時間も長く読むのもはやい。しかし、買ったときの興奮と連続しているので、その連続性の中に、読んだ興奮も埋もれがちだ。家の中で少し寝かせてから読むのが、私にはあっている。
日曜日の夜、布団に入っても何かもの足りないかんじがしたので、半年前に買った別役実の『満ち足りた人生』をひっぱり出して読んだ。出産、結婚、転職等々、人生を形づくっているさまざまな要素を、普通の人とは異なる、超現実ともいえる視点から書いている。独特のブラック・ユーモアが効いていて、プッと吹き出してしまうこともしばしば。
この姿を人が見たら何と思うだろう? スタンドのあかりに照らされ、夜中の2時、布団にくるまって、くすくす笑っている私を見たら。しかし、この本は、こうした状況で読むのがいいのだ。この本は、いま、このとき、こうやって読まれるのを待っていたのだ。そして、他の本も、自分が読まれるときがまわってくるのを、本棚の中で、いまかいまかと、息をひそめて待っている。(京)


『首の筋が…』

私の取り柄は健康なことだ。が、しかし歳には勝てなのかなあ?神様は私の唯一の取り柄まで奪ってしまったのだ。(ちと、大袈裟)つい最近のことなのだが、会社で受話器を片手にくしゃみをした。そのとたん首の筋がピキッとなってそのまま右側を首だけで振り向いたり出来なくなってしまった。つまり起きているときに首を寝違え?てしまったのだ。会社の同僚らに「ダサーい」と笑われながら、私の苦悩の日々は始まったのだ。その日は重い本を何十冊も持って本の取次と、生協関係を廻る予定だったのでかなり辛かった。自由が利かないってこんなにも辛いのかと一人激痛に堪える。自分がなってみないと結構分からないモノだなあと冷静に思ったりして電車を乗り継いでゆく。最後の場所の営業を終えると5時過ぎた。そして家まで5分の距離だった。溜まった仕事はあるにしても、もう堪えられん。首は片方に傾いでしまうし、歩くだけで痛い。ついつい「痛い、痛い」とつぶやき怪しい人と化してしまった。会社に「本日、直帰します」の連絡を入れると、家に戻り、保険証を片手に近所の病院に駆け込んだ。とにかくパンパンに首と肩と背中が熱を帯びて張りまくっていたらしい。
私「運動不足ですかねえ」先生「というよりも、疲れの蓄積が今日の朝のくしゃみで爆発したんじゃないかなあ」私(あーよかった歳のせいじゃないよね、そうよねえと自分をだましつつ)聞くところによると、一日中同じ姿勢でコンピュータをいじっていたり、無理ばかりしていると体に良くないらしい。「まあ十日もすれば完全に良くなりますよ」の言葉にそんなことしたら今年が終わっちゃうじゃんと思ったのはいうまでもない。しかし、幸いな事に、普段健康体の私は回復力も比較的早く2日もすると少しはましになってきた。が、しかしバカな私はここで、友人の子ども達3人と元気良く遊び回ってしまったのだ。次の日から再び激痛がおそってきたのはいうまでもない。皆さんくれぐれも治りかけは、無茶をしないようにね。(やぎ)


『話題の人になれるかも』

今、妹が学校の研修で韓国に行っています。世の中も年末年始は海外で…と言っています。
周りの友人、知人も海外旅行に行きたがります。私も海外に興味はありますが、行きたいとは思いません。…いや、行けないのです。なぜならば飛行機が怖いからです。今までに4回(国内)ばかり乗ってみたことがあるのですが、4回ともなぜが揺れが激しく(あんなものなのかな)、挙げ句一番最後に乗ったときは、強風のため着陸ができないとアナウンスが流れ、空港の上を30分近く旋回していました。それ以来もう絶対に無理です。どんな必要に迫られても乗りません。でも、そうなると私の人生にちょっとした支障がでそうなので、何か他の方法を考えなくてはいけないのです。例えば船。修学旅行の時に乗ったフェリーが台風直後か何かで荒れた海を大暴走、酔ってしまった事があり、それ以来乗れない・・よって、船もダメです。こんな私は一生海外に行けないでしょう。でも、飛行機がダメという人は結構多いはずです。そこで、世界各国を橋でつないでみたらどうでしょうか?設計上無理なのでしょうか?でも、渋滞が起きてしまったら、最悪ですね、抜け道はありません。目的地に行くまでにどのくらいかかるかわからないけれど、車とかバスとかも長時間乗るのはいやです。
その他に得意な乗り物が何かないか考えていたら、おおっっ!あった!そうだ、私は一輪車が得意じゃあないか。ジグザク走行だって大得意だった!これなら、渋滞中の車を後目にその間をスイスイとか走行が可能だ。なんて良いアイデアなんだ!それにもしそれで太平洋でも横断したらちょっとした有名人だ。よーし、早速今日から特訓だ。(みなりん)


『国会図書館はじめて物語』
国立国会図書館を利用することは、ひとつ大人になった証と幼い頃からあこがれの念を抱いていた。
なんといっても国の図書館である。国内外の書籍はもちろんのこと、雑誌から新聞、古文書にいたるまで、全国で刊行された本はほとんどあるらしい。棚には本がびっしり並び、天井までぎっちり詰まり、梯子を登って本を取り出すのだな。そして館内は天窓から差し込むわずかな陽光に照らされて、埃が舞う中、訪れた人々は静かに調べものをしたり、本を読みふけるのだろうな。でも、20歳にならないと利用できない。あぁ、早く大人になりたいぃ。と幼い私は勝手に想像し、ひとり、うずうずしていた。さながら、思春期の男の子である。それから数年後、20歳を迎え、念願叶って国会図書館入館資格を取得し(単に歳をとればいいだけの話である)、さっそく訪れた。
しかし、それはあくまでも想像にすぎなかった。探したい資料が99%あるのは間違いない。だが館内は薄暗く、天井は高いが天窓などどこにもない、梯子もない、第一本棚がない。代わりに和書・洋書に分けられた検索カードの棚が受け付けカウンターを挟んで両脇にずらっと並んでいた。来館者は目当ての資料のカードを自力で探し出し、書名と番号を請求票に記入し、受付に提出する。請求票は書庫に渡り、陰の仕事人(書庫係)が本を取り出すという仕組みになっていた。館内での閲覧は自由だが、外には持ち出せない。いわゆる閉架式図書館である。中世の外国の図書館みたいな・・・というイメージはどんどんしぼむ。
受付の前で待つこと30分、所詮人が探すことなので、請求したのと違う本が届くこともある。もう一度探してもらうこと数分。やっと手にした資料をゆっくり読むにも時間がないので、要所を複写サービスカウンターでコピーしてもらう。しかしまたこれがくせ者であった。複写箇所を指定し、係の人にコピーしてもらう。コピー一枚30円近くと記憶する。カラーコピー50円にも手も足も出せなかった学生にとって、手間賃が含まれているとは言え、モノクロコピーに30円は高かった。自分でコピーして、A4縦の向きに横の方向で刷ってしまい肝心の箇所が写せず、もう一枚なんてことを2〜3回繰り返せば、30円は安いものかもしれないとなんとか自分に言い聞かせ、泣く泣く50枚近くコピーしてもらった。その帰りに地元の図書館に寄ってほっとした。自由に閲覧でき、目的以外の本を見つける楽しさも味わえる開架式図書館の方が馴染みやすく使いやすいと実感した。
その後しばしば国会図書館にはお世話になっている。病院のような待ち時間と相変わらず高いコピー代にもそろそろ馴染んできた。けして利用しやすい図書館ではないが、ここに来ればたいていの資料はあるという安心は揺るぎない。地域の図書館において大量の書籍が貸し出されたまま戻ってこないという実態を聞いたりすると、利用者の多さと、貴重な資料を所蔵する図書館においては閉架式にせざるを得ない面もあるのだろう。どの書籍にしろ、資料にしろ、文献は貴重なものである。ここに来るたびに本は大事に扱わなくてはという気持ちにさせられる。
しかし、天窓から陽のこぼれさす館内で、梯子に登って閲覧できる図書館をさがす旅はまだまだ続く。(障害のある人にとったらそれこそ使いづらい図書館だろうな。でも、そんな図書館にめぐり会いたい・・・。)(かわら)

『出版界の不景気』

出版業界も不景気だ。もちろん経済界の不景気と連動してるわけだが、出版界特有の事情もある。世間の不景気がここまで深刻になると出版界特有の事情も従来にいや増してマイナスに作用している。
端的な現象は返本率の増加であろう。一般論でなく、自社のことを考えてみる。取次は返本を減らすためだろう、委託配本を随分削ってきた。5〜6年前に大手取次で1500〜1800部委託配本していたものが、今は500〜700部である。それでも小社にとって配本率が減少しているわけではない。
出版社、取次、書店、それぞれが何をなすべきか。出版社は、読者の要求にかなった本づくりをすること。読者に迎合しろといっているのではない。一人合点で本を作ってはいけないということだ。
取次は返本の少ない配本をする。そのために、本の内容をつかみ書店の状況をつかむ。パターンは配本とかコンピュータ配本とかでは動かないと思う。書店は自分の判断で本を仕入れよ、ということにつきると私は思います。(宮)

1999年12月13日
『足の裏のまめと腰痛』
新刊営業中なので「ロバ耳」に時間が割けません。今までにも何度かお休みしてしまったことがあって、心を痛めています。「あんなこと」「こんなこと」書きたいことは山のようにあるし、書く気もバリバリあるのですが、とにかく時間がないのです。言い訳じゃないのです。事実なのです。(本当だよ、リュウ)その証拠に、足の裏には無数のマメと湿布を貼らずにいられない腰痛が復活しているんだから。証拠物件必要なら見せるんで、言ってね。(みなりん)

『冬の大三角』

会社は京王線芦花公園駅の近くにあるが、都心からかなり離れた場所だから空を見上げても、視野はかなり狭い。甲州街道をはさんでマンションが林立しているうえに、明るい照明のせいで星などめったに見えない。いったいいくつの星が見えることか。
夜、自宅のある南大沢に戻り、都立大学の周縁を回って作られている小高い歩道に立つと、視野がひらけ、空には冬の大三角がくっきりと目に飛びこんでくる。冠座は肉眼で見てもいかにも美しいし、木星はひときわ明るく、あたりを圧する魅力がある。それでも明るい照明のせいで、四十年前の昔、夜中に起き出してみた三軒茶屋の星空にとても及ぶところではないのである。(宮)


『クリスマスの思い出』

親になってみるとこのクリスマスの時期というものが大変だな〜っとしみじみ感じてしまうようになった。そもそもキリスト教を信仰しているわけではないのに…と思いつつもコドモが「サンタクロース」を信じている現状では仕方がない。今年は「キックボード」(スケードボードにハンドルが付いたような形)なるものをプレゼントしようと決めて、コドモには内緒でいろいろなお店を探し始めたが密かなブームなのか売り切れ店続出でなかなか手に入らない。
いろいろな店を走り回っている私達は、はたから見れば滑稽以外の何ものでもないがいつか「こんな事もあったね。」という良い思い出に変わっていくのではないだろうか。
私がまだ幼かった頃、よく押し入れで遊ぶコドモだった。その押し入れの中で偶然にもクリスマスのプレゼントを発見してしまった。クリスマス当日にそのプレゼントが私の枕元に置いてあったが、今考えてみれば私の夢を壊さないように両親が毎年プレゼントをサンタクロースの代わりに用意していたのだろう。
クリスマス当日のコドモのうれしそうな顔を想像しながら「あと何年この楽しみな季節を過ごせるのだろう?」と少し寂しいような気もした。(リュウ)


『ロケット娘』

ときどき、むしょうに会いたくてたまらなくなる人がいる。その人はちえさんといって、私が中国にしばらく滞在していたときに出会った人だ。2年ほど連絡が途絶えていて、ふだんは便りがないのは元気な証拠、と連絡のひとつもないのがかえってちえさんらしいと思ったりするのだが、気持ちが落ち込んでいるときなんかは「だいじょうぶやって!」と後押ししてほしくなる。こういう風に書くと、まるで恋人でも待っているようだが、そういうのとはちがう。「風がこちらに吹くのを待つ」とでもいうかんじなのだ。
ちえさんは、ある日突然、留学生楼にやってきて、私の顔を見るなり「シャオセン、ザイマ?」と聞いた。お互い日本人とわかっているのに、ずいぶん変わった人だなあ、というのがそのときの印象だ。しかし、少し付き合ってみると、自分の気持ちにとても正直な人なのだということがわかった。もちろん、いわゆる「いい人」でも「かわった」人でもない。ごくごく自然体なのだ。そして、素直な人のつねで、他人にあきれられたりもすることも多々あるが、この人の言動や行動で傷ついた人は、少なくとも私の周りにはいなかったような気がする。行動はコントロールできないようだが、言葉で人を傷つけるようなことはしなかった。
そんなちえさんをして、ちえさんならしめている最大の要因は、なんといっても「思い立ったら即行動」するところで、私は心の中でこっそり「ロケット娘」と呼んでいた。あるとき、私がチベットに行って来たよ、と話すと「ええなあ、ええなあ」とうらやましそうにいって、それからしばらくして会うと「チベットよかったでえ」と嬉しそうに話してくれたことがある。しかも、チベットに行く前に、高山病にそなえて、四川省の山に登ったというのだから、慎重というか、なんというか……。
旅行だけでなくあらゆることに対して「思ったことはやる」人なので、いまごろ中国のどこかの村で、絵でも描いているのかもしれない。とくべつ金持ちなわけでもないし、特殊な技能をもっているわけでもないのに、なぜあんなに自由に飛び回っていられるのか不思議だが、おそらく、ある目的にむかって集中する力が普通の人よりも強いのだ、と思っている。
そんなちえさんを見ていたので、ああしたい、こうしたい、と思いながら実行にうつせない自分が歯がゆくてたまらなくなるときがある。年齢とともに現実の鎖は重たくなり、ますます動きづらくなるが、「本当はいつだって自由に飛んで行ける」という気持ちは、絶対なくさないでいたい。(京)

1999年12月6日
『じいちゃん』
前に私の母方のばあちゃんの話を書いたが、実は私にとって、そのばあちゃんの夫である、じいちゃんも、心引かれる人だった。過去形で書くのは、もう既にこの世の人ではなくなっている人だからである。じいちゃんは私がまだ小学生の頃に亡くなった。
わりと寡黙な人だったのだが、冗談を言い合った記憶もあるし、実はとても楽しい人だったのかもしれない。しかし残念なのは、じいちゃんという人を理解するほどに成長していなかった私は実はじいちゃんの全貌が見えていないということだ。だから、私がじいちゃんを好きだというのは記憶の断片でしかないのかもしれない。でもどこにも嫌な記憶がないのでじいちゃんはいつまでも私が記憶しているじいちゃんのままなのだ。手先が器用で、ドングリのコマを作ってもらったり、一緒に凧を作ったりした。私はじいちゃんに遊んでもらうのが好きな子どもだった。じいちゃん自身も子どもが好きで、孫が出来るとその孫達と遊ぶために(?)自分の子ども達の家を足繁く訪問してくれた記憶がある。じいちゃんが来ないときには、そのばあちゃんとじいちゃん夫婦の住むマンションに自然に人が集まってきていたように思う。あの時が一番親戚どうしが肩を寄せ合っていろんな楽しいことをした時だったのではないだろうか。
カメラと絵が大好きなじいちゃんは子どもや孫たちのすごくいい表情の写真をたくさん撮ってくれた。同い年のキヨちゃんと私がパンツいっちょでどーんと写っている写真や親戚のおうちの庭でお正月の着物を着て兄とふざけている写真があったりと、じいちゃんが撮った写真はみんな生き生きとしていて一人一人が写真から出てきそうな気がするものばかりで、撮られた人達も多分気に入った写真に仕上がっているように思う。絵のほうは、毎日『徹子の部屋』を欠かさず見ていたのだが、テレビ見ながらせっせとスケッチブックに鉛筆を走らせゲストの似顔絵を描いていたのを思い出す。その時、関心して見ていたが、今あらためて、見てみたい気がした。どうやら、その絵は、まだ存在するらしい。そのうちに見にいこうと思いながら未だ見ていないのだが死ぬ前にもう一度見たいものだ(まだ当分死なないと思うケド)。
数年前、まだ元気だったばあちゃんに結婚するならじいちゃんみたいな人がいいなあといったらすごく喜んでくれた。ばあちゃんもじいちゃんのことをすごく愛していたのだなあと思った瞬間だった。(やぎ)

『レコード芸術』

音楽関係の本を出し始めたので、書評や広告がらみでこの雑誌を見ることがある。何しろ内容の多彩なこと、分量も半端ではないし、事柄の細部に立ち入った記述がならんでいること、などに驚いた。私ならこれ1冊で1ヶ月は楽しめるほどの質量がある。一言で言えばマニアックの極みともいえる雑誌である。内外漢の手の及ぶところでないと思わせる。
趣味の雑誌が、部数は決して多くないが安定した販売を計算できる、というのはこういうマニアックな読者を前提としてるからだと思われる。
こういう状態ではなくて、もう少し一般的に広がりのある扱い方もあり得ると思うのだが…。(宮)


『おじいちゃんのナップサック』

おしゃれな男の人を見かけると、ほぉっと感心する。それがおじいちゃんと呼べるぐらいの年配者になるとますます目が釘付けになる。これは奥さんの配慮だろうか、それともご自身のセンスか。
今朝も駅のホームでおしゃれな人に出会った。帽子、コート、ズボン、靴と茶系でまとめ、コートのポケットに手をつっこんでしゃんとたたずむ姿は年よりかなり若く見える。(顔のしわから年はかなりいっていると憶測する。)で、おぉっと目がいったのは背中のナップサックである。レンガ色のナップサックは、茶系の服装のポイントになっていて、へぇ、粋だなぁと感心せずにはいられなかった。
配色のセンスもさることながら、重たそうな荷物でない、ナップサックだったのがいい。身軽な印象が好感もてた点なのかもしれない。
と勝手に品定めして、あげく背後から密かにスケッチ。ファッション雑誌に習わなくても、こうやって身近なところで参考になる人はいっぱいいるものだ。(かわら)


『象潟旅行』
会社の人には内緒だが、先日、仕事の合間をぬって象潟に行ってきた。象潟は秋田県の下の方にある日本海に面した町で、山登りが好きな人なら鳥海山のふもとといえばわかるだろう。私が行ったときはみぞれまじりの雪がたらたらと降っていて、鳥海山を拝む機会はなかなかなかった。しかし、何を食べても美味しいし、温泉は気持ちいいし、2泊3日の短い旅ながら象潟を満喫できた。
こう書くとまるで私がはじめて象潟を訪れたようだが、実は2年ほど前の冬に一泊したことがある。そのときは、東京から鈍行に乗り、五能線目指してひたすら北上する旅だったので、象潟には夜遅く着いて朝早く発つというスケジュールだった。なので、これといった印象は残っていない。ただ、駅からホテルにむかう道がやけに寂しく、夜の漁港が気味悪かったことを覚えている。
さて、今回の旅行の話にもどるが、食い物よし、温泉よしの象潟だが、ひとつだけ解けない謎があった。それは、「ここは本当に鳥海山のふもとなのか?」という疑問だ。友人は「天気のいい日なら、ここにどどーんと鳥海山が見えるのだよ」と家の前の空を指してそういったが、目の前にはどんより曇った空があるだけ。私のいる間じゅうそんな天気だった。ちらっと裾くらい見せてくれたっていいじゃないかと腹を立てたが、これも日頃の行いが悪いせいだから仕方がない。
そして、いよいよ帰る日になっても山は姿を見せなかった。この日は友人のお父さんに酒田の土門拳写真美術館に連れて行ってもらった。思いがけずいいものに触れることができて、これ以上望むのは贅沢というもの、いや、鳥海山なんてはじめからここにはないのさ、とあきらめることにした。ところが、酒田駅の近くで蕎麦を食べ、3時10分発の特急に間にあうよう車で送ってもらっているとちゅう、突然、空が晴れて山が姿を見せた。それは本当に突然だった。私は山のことは詳しくないけれど、ネパールのホテルで宿の主人に朝早く起こされ屋上に連れて行かれ、目の前の山を「あれがアンナプルナだよ」と教えられたときと同じくらいの驚きだった。山をまぢかで見ると、感動というより、ひゃあびっくりというかんじなのだ。冬の山を見るたびに思うのだが、自然の偶然にしてはうまくできすぎている。自然の偶然なんてことが、そもそもありえないんじゃないか。こんなことを俗にまみれた人間に言われたって信じやしないが、自然そのものから感じるときはある。雪山に誘われて登ってみようという人の気持ちがわかるような気がした。私も登ってみたくなったが、いきなり冬山は危険なのでとりあえず夏に来て登ってみようと思った。
新潟行きの特急からも鳥海山はしばらく見え、私は完全に見えなくなってから席に座った。2泊3日の旅は命の洗濯になったが、温泉でつやつやした肌を会社の人たちにどうやっていいわけしようか困ってしまった。(京)