この本の著者、子母沢寛はある年齢以上の人なら知らない人はいない小説家。私も名前は知っていたが、小説は読んだことがなかった。もちろん、どんな人なのかも知らない。しかし、この、動物について書かれたエッセイ『愛猿記』を読むと、とても情の深い人なのだなあ、と思ってしまう。むこうにそのつもりはないだろうが、まんまと策にはまってしまったというかんじだ。「動物をかわいがる人」=「やさしい人」というイメージが、私の中でぬぐいきれないからなのだが、この考えは、いまも一般的なようだ。
先日も、テレビで芸能人のペットを紹介する番組をやっていて、お金に糸目をつけない溺愛ぶりを披露している芸能人が何人かいた。できるだけのことはしてやりたいという気持ちは、わからないでもないが、動物に人間と同じような生活をさせることが愛情、と考える飼い主の考え方には、どうもついていけない。溺愛すればするほど、動物が「愛玩」される「もの」になっていく気がする。
さて、この本の著者も、猿に対する溺愛ぶりにかけては、芸能人とかわらないが、しつけもそれ相応に厳しい。また、猿はいたずら好きで知られるが、この人は、それ以上のいたずらを猿に仕掛ける。その応酬がすごいのだ。
著者の家では、猿は代々「三ちゃん」と名づけられる。この三ちゃんが、いずれも強者ぞろい。布団の綿を引っぱり出して、部屋じゅうを糞とおしっこまみれにするなんて朝めし前。書き上がったばかりの原稿を、咬みちぎってめちゃくちゃにしたり、本棚の本を残らず引っぱり出してぼろぼろにしたりと、著者を青くさせる(編集者も青くなったと思う)。しかし、敵もサルものながら、人も負けてはいない。
ところかまわず糞をする猿に困って、著者はあることを思いついた。猿のころころと丸い糞を、ひとつひとつ丁寧にぶどうの皮につめ、猿の目の前に置いてやる。すると、猿は喜んでそれをポイポイ口の中にほうりこむ。猿の口の中は袋になっていて、あとでゆっくり口の中にもどして食べるそうだ。そうして、いざ食べてみると、自分のうんこ、つぎもうんこ、うんこ、うんこ……。「そのときの猿の驚愕と狼狽というものは実に筆紙に尽くし難い」と書いているが、そりゃあそうだろう。ひどいことをすると思うが、それ以前に、猿の糞をぶどうの皮につめ、それを20個も作っている著者の姿を想像すると、すごくおかしい。いくら可愛がっている猿の糞でも、手でつかんで、葡萄の皮に一個一個つつめるものだろうか。
しかし、こんなおかしな話ばかりではない。二代目の三ちゃんは、夜中に突然、何ものかに殺されてしまう。戦時中、空襲で焼け死ぬのはしのびないといって、富士の裾野まで放しに行ったのを、どうしてもはなれないので連れて帰った猿だった。
こうしたエピソードを取り上げていくときりがないが、その他にも、猿まわしの親方や小鳥飼いの名人といった、味わい深い人物が登場する。そして、この本を読むと、動物も飼い主を選ぶのだなあ、ということがわかる。一般的には、飼い主である人間が動物を選ぶと考えられているが、その逆もある。この人は、「猿に選ばれた人」なのだ。
私も犬を飼っていたことがあるが、残念ながら、あまり深いかかわりをもてなかった。めった家によりつかない私を、犬はほどほどの愛想でむかえ、私はほどほどの愛情で可愛がった。なので、飼い主と動物の深いつながりを見ると、うらやましいと思うと同時に、自分にはできないと思う。だから、本を読んでがまんすることにしている。
『愛猿記』を読んで子母沢寛に興味を持ったので、この人の小説も読んでみようと思っている。しかし、どんなに真面目な小説を読んでいても、頭のどこかに、ふっと「三ちゃん」たちの話が頭をかすめ、くすっと笑ってしまいそうだ。エッセイの妙味は、著者と読者を近づけてくれるところにあるのだと思うが、この本はそういう意味で、すぐれたエッセイだといえる。(文:京)
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