今回紹介するのは"ちょっとしぶくてよい本"です。
まず、この本はおおまかにいってふたつの部分から構成されています。前半は伊豆を愛した作家、歌人たちの随筆。後半は民俗学的に見た伊豆。前半はスイスイ読めましたが、後半はところどころ息つぎが必要でした。なにしろ"学"とつくとかまえてしまうたちなので。でも、写真や図を豊富に使って説明しているので、なかなか楽しんで読めます。そして、全部を通して読んでこそ、奥行きのある"伊豆の國"が浮かび上がってくるというしくみなのです。
この本を読んで観光のあり方についてあらためて考えさせられました。なるほどなあ、と思わされた言葉がいくつかあり、例をあげますと、「こうした美しい自然環境を多くの人々の心の憩いに役立たすことは、自然美に人間が報いようとする素直な態度である。人間の自然に対する感謝である」といい、著者の萩原井泉水は「ここに観光の真義ある」といっています。また、石坂洋次郎の「温泉地を、団体客本位の享楽的なものと、家族本位の健康的なものと、ハッキリ二つに分けてもらえないかということだ」という提案は、伊豆以外の観光地にもあてはまります。
随筆はおもに60年代から70年代に書かれたものだけれど、川端康成も幸田文も、この時代の人たちは"面"の旅をしている。自然に培われたその土地ならではの風景、風俗といったものを観光している。つまり、その土地からたちのぼる空気のなかに身をおいている。では、いまがどうかというと、"線"と"点"を結ぶ空間移動を旅行とよんではいないか? 乗り物にのって、名店といわれる食べ物屋の前でおりて、名所を巡って、また、乗り物にのって…。そこに土地そのもの空気を感じる余裕はない。地図を点と線にしてしまうものだから、いきおい、点はくっきり、線はまっすぐ引かれるようになる。○○ワールド、○○村とわかりやすい点をつくって、○○ラインなどと平らで幅広の線を引くようになり、"面"から切り離されたハコや道路が浮き上がってしまう。これがいまの多くの"観光地"といわれる場の状況ではないでしょうか?
そういうものがすべてわるいとはおもいませんが、わたし自身は年を重ねるごとに、そういう旅行に疲れてしまいました。萩原朔太郎が、「旅は単なる『同一空間における同一事物の移動』である」と、なにかで書いていたけれど、そうなってしまうと旅ほどつまらないものはないのです。(文:京) |